グローバルサウスで学び、旅し、働き、住んでみたー世界を潜入取材するー

インドらしきもの

乞食とのやりとり

 場所はニュ-デリ-。植民地支配者が自ら住むために作った緑深い街である。空は晴れ空気はすがすがしい。 日曜日。仕事は休みである。休みには、朝も昼も夜も街に出る。その時だけはバックパッカーに戻る。私とその上の年齢の方だと、海外部門に勤める何人かは元放浪者であった。だから経済的な儲けだけではない多角的な視点で物事を見ることができる。ビジネスでついた垢を落とす。一時の自由。工業団地や工場やコンピュータではなく、別のインドを見てみたい。

 

 今回は映画を見に行く。映画館の中は国によって随分と違うことがある。メキシコなどは夜一〇時ぐらいに始まり、カップルが館内でキスし抱き合うための愛の交換の場所になっている。なにもしない男は、ホモセクシャルかとなじられる。

 さて、インドは?

 

 映画館に着く前に、希望が神様に届いたのか、いつの間にか、私はある意味日本人が想像する最もインドにふさわしいものに囲まれていた。上半身裸で黒褐色の肌を光らせている6才前後の子供たち数人。何やら大騒ぎしながら腰のあたりに手を差し出してくる。高級ホテルの裏の空き地に家族で住み着いているこじきである。私はしらんぷりして歩いてゆく。だが彼らは諦めない。特に右の真ん中にいる目のくりっとした子はずっと手を出したまま、ちらちら上目使いに私の顔を伺っている。

  

200メートル程歩いて私はそっとずぼんのポケットに手をつっこむ。子供たちの会話が止まる。ざらっとした紙幣の中に冷たいコインの感触。金を媒介にした一瞬の邂逅。それはギャンブルにも似ている。与えるべきか与えないべきか、もらえるかもらえないか。緊張の一瞬。手を出しちらりとコインを確かめ、一番熱心だった子の手のひらにそっとそれを置く。彼はそれを見てわ-と跳び上がった。白い歯が美しい。そして回り右。再びわ-と大声を発して母親の待つ掘っ立て小屋へ突っ走していった。その後ろ姿を見てなにやらこちらまで嬉しい気持ちになる。

 

  インドでこじきを見ていい気分になったのは2度目である。南インドの花に囲まれたマドラス(今はチェンナイ)の街。朝方から小奇麗なサリ-に身を包んだ中年女性が高級住宅の玄関の前で小脇に抱えた堤をポンポコ叩き続けるのである。そのうち女中が小金かごはんを持って出てくる。なんとなくいい風景である。

 

 私が幼かった頃、地元の北海道旭川にもホイトといわれるこじきが家を回っていた。あるいはもう少し格があがると虚無僧である。縦笛をふき、藁の編み笠をかぶっている。時代劇に出てくる虚無僧がまだ存在したのだ。父親や祖父は「ほいとだよ、おっぱらおう」などといって、私に小銭を渡した。けれども彼らの侮蔑するような言葉の底にはひどく冷酷なものはなかった。

 

 けれども施しの額が問題にもなる。外人旅行者には相場やコインの価値がわからない。カルカッタでは、ひどくいやな気分になった。

 ニューデリーと同じように、ごみをまとっていた子供にいくらとも確かめずコインを差し出した。すると歯をむき出しにして追いかけてきた。多分彼にとってそれはきっとはした金だったのだろう。適正価格を支払わなかったせいで、子供は物凄い顔つきで追いかけてくる。金額の過小が自身の尊厳を損なわれたと感じたのだ。けれども彼の威嚇は逆効果をもたらした。私は恐怖と怒りと面倒臭さから、子供の前に手を振り上げる。子供は口汚くののしり、退散した。気分がくさくさする。自分の人格がおとしめられたように感じた。

 

 人によっては何もやらないという方針をもっている人もいるようだが、それでも私は基本的に彼らとやり取りをすることにしている。たまたまこの世で彼らは彼らで今の私はたまたま私なだけなのだから。

 けれどもそんな考えが吹き飛ばされる例外ともいえそうなのは、オールドデリ-の路上で見かけた数人の人間の鶏(トリ)である。汚れた腰蓑をつけただけで、半裸で食料品の店先にしゃがみこんで、店主から投げ与えられる残飯やトウモロコシの粒を道から拾い食う。ホッホ、ホッホと動物めいた奇声を上げて残飯をせがみ、我がちに拾い食う。この光景は想像を絶した。人間の尊厳を考えてしまう。 人間ではなくただの生き物である。彼らに食物を撒く気にはなれそうもない。

 

ボリウッド映画との出会い

 さて、映画の題名は「一九四二」インドの独立闘争を描いた映画。館内はほぼ満員。まずは映画が始まる前に観客は全員直立する。あれ、郷に入っては郷に従えで、私も立ち上がる。すると国家が流れるのだ。えー、ワールドカップのサッカーの試合でもないのに。でも独立して50年ほどで、連邦国家であることを考えると、そういうものなのかと納得する。日本のように昔から国があるわけではない。(ただし短いアメリカ占領期間を除けばだが)

 

 さて、映画の内容は、愛ありサスペンスあり歌あり踊りありの典型的なインド映画。最後にイギリス人が吊るされ、観客たちのやんやの喝采で終わった。ヒンディー語がわからない他州のインド人も楽しめるようなつくりなわけだ。

外国人の私も胸をすかっとさせて映画館から外へ出た。

 

  するとインド的現実がすぐさま私を襲った。つるんとすべって転んだのである。すべらせたのは、インドの神様のおひねりもの。タイヤで作ったゴム草履の中の素足に牛の糞が、しかもでき立てでゆげを上げているような品物が盛り上がっていたのだ(続く ブータンのジュリアナ嬢とインドのアッシー君)。

1995年のインド映画 日本では見られなかった