巨大なセミクジラを見に行く
コモドロリバダビアからバルデス半島までは五〇〇キロを超える。だから早朝に車で宿を出た。乗組員は運転席に中年のアルゼンチン人のアレハンドロ、助手席にチリからの出稼ぎの二〇代後半のホセ、そして後部座席に私である。三人の共通点は、同じ宿で寝泊まりしているということだった。一泊三ドルのドミトリー、バス、トイレ共同。宿泊者の多くは石油関係の出稼ぎのむさ苦しい労務者の男たちである。残念ながら我々には美貌のエッタ・プレイスが足りない。
アレハンドロの車は錆びついてところどころ穴が開いている真っ赤なボディの年代物のキャディラック。彼にはガソリン代と手間賃を支払っていた。その喋り方や様相からすると、労務者ではない。顔は長年の風雪が幾多の皺を刻み付けてはいたが、ペロニスタ(社会主義者)ではなく、自由主義者で他のアルゼンチン人のように「チェ、チェ」と連発して話すこともなかった。
一方、チリ人のホセはチリのサベドラ出身。ホテルで下働きをしている出稼ぎで、ボイラ―の点検や掃除をしていた。褐色の肌は、マプーチェの血が入ってることを想起させる。マプーチェとは彼らの言葉で大地の人を意味する先住民。スペイン人に最後まで抵抗した勇猛な人々だった。
私はサベドラで、日本人を見るのは初めてだというマプーチェの少年たちにまるで有名人か何かのように取り囲まれたことがあった。彼らの顔かたち・風俗はアイヌ民族とよく似ている。
「おい、ホセ、いっしょにいこう。クジラが見られるよ。今日は日曜だし」。アレハンドロはホセをそういって誘ったのだが、そこには私が思いもつかない魂胆が秘められていたのである。
車の中で我々は寡黙だった。それぞれが自身の隠された過去をしゃべることもない。私がボリビアで労働組合に対する工作をしていたなどとカミングアウトすると、彼らはいっそう口を閉ざすことだろう。アルゼンチンでは左右の対立は人を憎悪に駆り立て、血の清算になることが珍しくはない。社会主義と新自由主義の対立が三〇年以上も続いている。最近の米国よりも何一〇年も前から国は二分されている。しかも六年前までは軍政である(88年当時)。
このような社会では公の場所で政治的発言は控えられる。密告という汚い罠が待っている。アルゼンチンに滞在し、スペイン語が分かり、感性が研ぎ澄まされている人ならば、この国は、とりわけ首都のブエノスアイレスは何か居心地が悪く、人と人の間に流れる気まずい空気に気が付く。けれどもそんな気まずさを補ってくれるのは、パタゴニアの大自然である。
道中は退屈な大地と地平線が続く。対向車とすれ違うこともまれだ。時折放牧されている羊の群れが散見される。ここは人よりも羊のほうが多い。当時コモドロリバダビアは人口が五万人前後だったが、パタゴニア周辺の羊の数は一千万頭を超える。
カーラジオがストライキのニュースを伝えているが、電波が弱くとぎれとぎれである。
昼過ぎに目的地に到着した(続く)。