グローバルサウスを実践するー世界潜入取材記ー

巨大なセミクジラを見に行く

ビーグル海峡やパタゴニアは自然の宝庫

 

 コモドロリバダビアからバルデス半島までは五〇〇キロを超える。だから早朝に車で宿を出た。乗組員は運転席に中年のアルゼンチン人のアレハンドロ、助手席にチリからの出稼ぎの二〇代後半のホセ、そして後部座席に私である。三人の共通点は、同じ宿で寝泊まりしているということだった。一泊三ドルのドミトリー、バス、トイレ共同。宿泊者の多くは石油関係の出稼ぎのむさ苦しい労務者の男たちである。残念ながら我々には美貌のエッタ・プレイスが足りない。

 

 アレハンドロの車は錆びついてところどころ穴が開いている真っ赤なボディの年代物のキャディラック。彼にはガソリン代と手間賃を支払っていた。その喋り方や様相からすると、労務者ではない。顔は長年の風雪が幾多の皺を刻み付けてはいたが、ペロニスタ(社会主義者)ではなく、自由主義者で他のアルゼンチン人のように「チェ、チェ」と連発して話すこともなかった。

 

 一方、チリ人のホセはチリのサベドラ出身。ホテルで下働きをしている出稼ぎで、ボイラ―の点検や掃除をしていた。褐色の肌は、マプーチェの血が入ってることを想起させる。マプーチェとは彼らの言葉で大地の人を意味する先住民。スペイン人に最後まで抵抗した勇猛な人々だった。

 

 私はサベドラで、日本人を見るのは初めてだというマプーチェの少年たちにまるで有名人か何かのように取り囲まれたことがあった。彼らの顔かたち・風俗はアイヌ民族とよく似ている。

 

「おい、ホセ、いっしょにいこう。クジラが見られるよ。今日は日曜だし」。アレハンドロはホセをそういって誘ったのだが、そこには私が思いもつかない魂胆が秘められていたのである。

 

 車の中で我々は寡黙だった。それぞれが自身の隠された過去をしゃべることもない。私がボリビア労働組合に対する工作をしていたなどとカミングアウトすると、彼らはいっそう口を閉ざすことだろう。アルゼンチンでは左右の対立は人を憎悪に駆り立て、血の清算になることが珍しくはない。社会主義新自由主義の対立が三〇年以上も続いている。最近の米国よりも何一〇年も前から国は二分されている。しかも六年前までは軍政である(88年当時)。

 

 このような社会では公の場所で政治的発言は控えられる。密告という汚い罠が待っている。アルゼンチンに滞在し、スペイン語が分かり、感性が研ぎ澄まされている人ならば、この国は、とりわけ首都のブエノスアイレスは何か居心地が悪く、人と人の間に流れる気まずい空気に気が付く。けれどもそんな気まずさを補ってくれるのは、パタゴニア大自然である。

 道中は退屈な大地と地平線が続く。対向車とすれ違うこともまれだ。時折放牧されている羊の群れが散見される。ここは人よりも羊のほうが多い。当時コモドロリバダビアは人口が五万人前後だったが、パタゴニア周辺の羊の数は一千万頭を超える。

 カーラジオがストライキのニュースを伝えているが、電波が弱くとぎれとぎれである。

 昼過ぎに目的地に到着した(続く)。

グローバルサウスを実践する―世界潜入取材ー

パタゴニアで羊を盗む  アルゼンチン パタゴニア 

パタゴニアの大地には犯罪自由の風が吹く

無法の大地

 パタゴニアは荒涼とした無法地帯である。秒速五〇メートルの風が吹きすさび大地には背の低い灌木しか生えない。手にしたアルゼンチン紙幣が風にさらわれ、あっという間に一〇〇メートル先まで吹き飛ばされたことがある。幸い紙幣は地面を覆いつくす黄色いコイロン草にひっかかった。

 

 人はまばらで羊の群れが散見される。私が駐在していたボリビアと違い先住民も見かけることは少ない。白人の地なのだ。この地のインディオは一九世紀中後半にほぼ一掃され、土地はアルゼンチン人に分配されたが、不在地主となったものも多い。パタゴニアはパリをまねた文明の花咲くブエノス・アイレスからは遠すぎる。送られてくるのは犯罪者である。北海道の網走に刑務所があるように、最南端の都市ウシュアイアにも彼らのための終の棲家があった。

 

 そんな地には、変わり者のイギリス人やウェールズ人が、そしてアメリカの西部劇の世界から別れを告げた犯罪者がインディオたちの癒されない魂が彷徨うこの大地にやってきた。一九〇〇年ころにはアメリカでの列車強盗や銀行強盗は取締りがいよいよ厳しくなり、彼らは犯罪自由の噂があるパタゴニアの広大な大地に憧れたのである。

 

 そのうち映画にまでなったのが、列車・銀行強盗ブッチ・キャシディサンダンス・キッド、そして彼らの愛人の元教師のエッタ・プレイスである。一九六九年公開のアメリカ映画明日に向って撃て!』の中では、彼らはボリビアで犯罪三昧の生活を送ることになる。けれども、実際には彼らが最初に足を踏み入れたのはアルゼンチンのパタゴニアだった。

 

 アメリカの銀行で金をたんまりせしめていた彼らはアルゼンチンで数年まっとうな生活をするが、そんな退屈な日常に耐えられるはずがない。犯罪のプロット作りと実行時のスリルをまた味わいたくなった。『パタゴニア』を書いた英国の作家ブルース・チャトウインのいう強盗中毒というやつだ。再び銀行強盗に舞い戻る。

 

 映画では、鉱山会社の金を盗んだブッチ・キャシディサンダンス・キッド(エッタ・プレイスはアメリカに帰国していた)はボリビア南部のサンビセンテボリビア陸軍の集中砲火を浴びて殺されることになる。

 

 けれども、ブルース・チャトウインによると、それは真っ赤な嘘で、彼らは死を装い、新たな名前を得て、新たな人生を送ったという。他にも彼らの生存説を唱える人は多い。

 

 私は図らずもらずもブッチ・キャシディサンダンス・キッドらと逆向きにほぼ同じコースを辿っていたことになる。チリのプエルトモントから陸路アンデス山脈を越え、アルゼンチンのバリローチでスキーを楽しみ、世界一美しい朝焼けの海を持つコモドーロ・リバダビアに飛び、荷物を安宿に預け、そこから最南端の街ウシュアイアを訪れ、巨大なセント―ヤ(南タラバガニ)に舌鼓を打ち、ビーグル海峡でウミウやイルカに挨拶し、睨み合うチリとアルゼンチンの駆逐艦を遠目に確認し、次にカラファテまで飛び大氷河ペリト・モレノの氷の崩落に感嘆し、再度旅の拠点でもあるチュブト州のコモドロリバダビアの安宿ホテル・コメルシオに戻ってきた。

 

 彼ら犯罪者はチリ人とともにこのコモドロで銀行強盗を試みているが、分け前を巡って、仲間割れをし、強盗は未遂に終わっている。彼らの目的は犯罪であったが、私の目的は故郷の北海道を遙かに超える荒々しい大自然を堪能することだったのだが…(続く)。

 

 

 

 

グローバルサウスを実践するー世界潜入取材記ー

不可解な謎は残ったままだ

犯人が逃げた隘路には癒さらぬ魂と謎が閉じられたままだ

 

 

 シャルリ・エブドを襲撃した実行犯は兄弟である。アルジェリア系フランス人のサイド・クアシ兄(三四)と シェリフ・クアシ弟(三二)。生まれたのはパリ郊外のサンドニである。

 さらにこの襲撃の二日後の一月九日にユダヤ食品専門スーパーマーケットが襲われ、四名のユダヤ人が殺害された。襲撃犯はマリ系フランス人のアフメド・クリバリ(三二)。彼は空港近くの印刷会社に立てこもっていたクアシ兄弟の解放を求め、自ら「イスラムスンニ派過激組織イスラム国(Islamic State、IS)のメンバーであり、シャルリー・エブド襲撃事件と協調して実行した」と語っている。クリバリの生まれたのは、サンドニから三キロほどのラ・クールヌーヴだった。

 

 社会問題が山積している都市の郊外はフランスでは郊外問題「banlieue(バンリュ)」といわれている。襲撃犯に共通するサンドニはテロの根幹を知るひとつの鍵だ。その後私はサンドニを何度か訪れ、またテロリストのようにこの街に潜むことになる。

さらに事件は一見単純だが、不可解な点が二つあった。

 

「シャルリ・エブドを襲撃したのは三人だった。一人は青い目をしていた」―生き残った人間や目撃者からはそんな証言があった。けれどもその人間についての報道はぷっつりと消えた。

 

「捜査にあたった警察の幹部の死体が見つかり、自殺とされた。彼が書いた報告書は消えた」ーエルリク・フレドである。二〇一二年から、実行犯のクアシ兄弟が高校時代を過ごしたリモージュ地域の警察の副長官でフランス当局と二人の兄弟の関係を証言しうる諜報活動を担った幹部の一人だった。彼は事件時にすぐさまシャルリ・エブドの犠牲者の一人の親戚に聞き込みを行い、その内容を含めて事件のあらましについて、夜遅くまで署内で報告書を作成していた。翌午前一時に彼は死体で発見されたが、彼が書いていた報告書は消え去った。

 

 この事件については『現代思想』3月臨時増刊号、「パリの策謀」(ホレイス・キャンベル)に詳細に書かれている。

一月九日にはユダヤ食品スーパーと印刷会社にフランス特殊部隊が強行突入し、ほぼ同時に三名を射殺した。死人に口なしとなった。

 

 時を経てこれららのテロ事件の裁判は二〇二〇年に結審したが、罪に問われた被告は全員食料品店の襲撃に絡んで訴追されていた。シャルリ・エブド襲撃の実行犯、武器の入手経路、アルカイダイスラム国との関係などは、謎のまま閉ざされた。

 

誰が最も得をしたのか

 人は陰謀論をバカにするが、歴史上もこのような不可解な事件では国の諜報部門が関与している。少なくとも私はそう考える。そこで、この襲撃で最も利益を得た人間をあれこれ調べてみるとイスラエルのネタニヤフ首相に行きついた。

 当時イスラエルのネタニヤフは国際的に孤立していた。前年の二〇一四年七月から八月にかけてイスラエルはガザへ侵攻し子供を含めて二〇〇〇人を殺害している。その非道さに、ヨーロッパ、アメリカでさえ、イスラエル嫌悪の感情が芽生え、国連人権委員会は非難決議を行った。同時にパレスチナ国際刑事裁判所ICC)への加入が迫っていた。ネタニヤフ首相は二〇二四年と同様に戦争犯罪人として訴追される可能性があった。潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が、パレスチナ四月一日ICCの締約国に正式になることを認めたのは、シャルリ・エブド襲撃事件と同日の一月七日である。

 

 このテロのおかげでオセロゲームのように黒が白となった。

ネタ二ヤフ首相はこう訴えた。「フランスは危ない。ユダヤ人はイスラエルに移住したほうがよい」。食品スーパーのユダヤ人の犠牲者の葬儀はイスラエルで行われた。

 

 一月一一日、パリでは民主主義と表現の自由を守るための「わたしはシャルリ―」なる一六〇万人以上の参加者からなる共和国大行進が行われ、フランスと国際社会の団結を誇示した。

イスラエルはテロ戦争の最前列にいる!」

ネタ二ヤフ首相は突如主役に近い形で参加した。行列の先頭は支持率が一五%まで落下していたフランスのオランド大統領、左隣に順にマリのケイタ大統領、ネタニヤフ首相、右隣にドイツのメルケル首相、欧州理事会のトゥスク議長、パレスチナアッバース大統領(ネタニヤフが来るというので、バランスを取るために急遽呼ばれた)がいた。

 こうして国際社会ではテロとの戦いが強調され、イスラエルへの非難は薄まった。さらにイスラエル国内のナショナリズムが高まったおかげで、同年三月の議会選挙でこれまで不人気だったネタニヤフ所属のリクート党は議席を一八から三〇に伸ばした。

 

 なお日本もこのような世界の潮流を傍観していたわけではない。一月一八日には安倍元首相が経済ミッションを従えてイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相と硬い握手を交わしている。(パタゴニアで羊を盗む 続く

グローバルサウスを実践する―世界潜入取材記ー

シャルリ・エブド社の前 

石畳に連続テロの闇を追う シャルリ・エブド襲撃の謎 

  エア・フランスの日本―カラカス便は真夜中に羽田を出て経由地のパリには早朝に着く。カラカス行きは翌日便なので、四か月ごとの休暇時にパリを何度も散策することができた。当時私はベネズエラの石油公社内に勤務していたのである。

 

 パリではカフェやレストランが密集するバスチューユ広場から歩いて一〇分ほどの距離にある3つ星ホテルを定宿にしていた。テロリストに襲撃されたシュルリ・エブドのオフィスがはたまたま宿から目と鼻の先にあった。

 

 事件の一か月後、私は現場にいた。古めかしい共同住宅のようなビルとその向かいのビルの麓には、花束が山のように咲き乱れ、フランスの三色旗が花々の中に埋もれていた。ビルの壁には、寄せ書きやシャルリ・エブド紙がかつて掲載した風刺画が貼られていた。

 「私はシャルリ」「私たちは差別主義者ではない。自由の民、それが条件」などなど。中には場違いと思われる、こんなときの紋切型のチェ・ゲバラの肖像まである。

 

 哀しく複雑な気持ちだった。同業者11人が犠牲になったのである。私はプラント建設のマネージメントコンサルタントの職にあったが、時間を見て「新潮45」にべネズラやカリブ海にかかわるレポートを寄稿していた。「ベネズエラで絶世の美女はいかに創られるか」、「カリブ海を席巻する許されざる寿司」、「ホームラン王バレンティンの意外な素顔」など軽めの記事である。その当時はベネズエラのオタク事情の原稿を仕上げている最中だった。

 

 テロが身近に迫っているような気がしていた。アルジェリアイナメナスで犠牲になったのもプラント建設の同業者である。さらに、ベネズエラ独裁政権の中で国家テロにより、同僚の女性独りが犠牲になっていた。

 

 事件と同じ午前一一時半。周囲に人の影はなかった。ビルを越えて直進すると、住宅が道を遮る行き止まりで、ビルの右側の道路だけが車道への抜け道となっている。

 自爆テロではなかった。逃げ場が一つしかないのだから、犯行は早急に行う必要があった。テロリストたちは編集会議中の新聞社を襲ったのである。 

 

 シャルリ・エブドの出自を調べてみた。産声をあげたのは、一九六〇年。新聞の名前はなんと『Hara-Kiri』。左翼系だ。大統領のドゴールを愚弄したことで翌年早々に発禁。復刊したのは一九六六年だが再度八一年に廃刊。

 

 九二年にシャルリ―・エブドとして再開されたが、その後も資金不足、販売不振から何度も廃刊危機にあったといわれる。ネットの盛況から、最近は一層、経営難だったのではないか。発刊部数は公称五万部前後だったらしい。

 そのような新聞社や雑誌社はどう生き残るのだろうか。生存のために少量の毒を飲み、それが世間の一部から認知されれば、大量の毒を飲み続けることになる。それ以外生きる術がなくなる。安易な罠の中に自ら嵌ってしまうのだ。 

シャルリ―・エブドにとっての毒はイスラム愚弄である。フランスのイスラマフォビア(イスラム恐怖症)を増幅させていく。編集者たちは自身が差別主義者であるとは微塵も思っていなかったのかもしれない。もともと権威に対する嘲笑、愚弄の新聞であり、フランス特有のライシテ(世俗主義政教分離)から程遠いイスラムは恰好の攻撃目標だった。

 

 しかし、私から見ればそれは欧米にありがちな傲慢である。それぞれの国は歴史も文化も宗教も違う。

 私が時折書かせてもらっていた「新潮45」を思い出す。書き始めたのは二〇〇六年で当時はエログロ路線を走っていた。だが何人かの編集長の交代のあとでまったく別の雑誌になってしまった。内容は極端に右に寄り、嫌韓や嫌中だけではなく、少数派への差別助長の雑誌になってしまい、世間だけではなく社内からも疑問が呈され廃刊した。二〇一八年最終号の特集は「野党 百害」と特別企画「そんなにおかしいか杉田水脈論文」と続く。執筆者で目立つのは、ケントギルバードや小川栄太郎。私にいわせればデマゴーグである。廃刊時の発刊部数は一万六千冊前後だという。

 

 これでは貧すれば鈍する。編集長は、廃刊の危機を感じ続けていたことだろう。

 一方、シャルリ―・エブドの編集長シャルブは根っからの共産主義者で『Hara-Kiri』の伝統を引き継ぎ、火炎瓶を投げ込まれようが、アルカイダの殺人リストに載ろうが、「跪いて生きるか立って死ぬならば、立って死ぬほうを選ぶ。(もっとも、私には妻も子供もいないからという留保つきだが)」として、批判や脅しなどに屈せずに、イスラムを愚弄し続けた。

 

 マスコミ魂という意味では、見上げたものである。日本の嫌韓、嫌中の新聞社や雑誌の編集長はその覚悟があるのだろうか? けれどもシャルブは、自殺願望があって殺害されるのを予見し、望んでいたのではないかとさえ思えてくる。彼は、二〇一四年年一二月三一日号(事件の前の週の号)には、「フランスではいまだに襲撃が全くない」という見出しの下で、ジハディスト戦士に「慌てるな!新年のあいさつだったら一月末まで間に合うぞ」と煽っている風刺画を掲載している。
 

 シャルブ編集長は、編集方針に賛同していた、あるいはただたんに仕事が欲しかった漫画家や編集者、校正者など一一人を死の淵へと引き連れて行ってしまったっことになる。(続く 不可解な謎は残ったままだ

 

グローバルサウスを実践するー世界潜入取材記ー

この娘は保育園、幼稚園、ましてや学校に通えただろうか?

眠りこけるとチャンスを逃す?

 いつもなら相当くたびれていても街へ繰り出すのだが、今回は蓄積した疲労が、私をしてホテルに留まらせた。

 ラブが用意したのは、空港内のホテルだった。三人娘もいっしょである。彼女たちも翌朝の便で他の州へ飛び立つ。

 ホテル内のレストランでまたも夕飯をともにする機会に恵まれた。私たちには運命を分かち合ったことからくる仲間意識が芽生えていた。

 

 場にはほっとした空気が流れていた。命懸けの冒険はとりあえず終了した。明日も飛行機とはいえ、落ちる確立はずっと低い。気分は晴れやかであったが、身体のほうはくたくたで、マイアミまで一日半もかかったことになる。ルディアの目の下にも隈ができている。

「明日は二時間の旅よ。あなたは?」

「一〇数時間かな、でももう空港に舞い戻らなくて済むだろうから」

 彼女は破顔した。浅黒い肌に白い歯が美しい。危険の代償に神様が送ってくれた賜物ではないのだろうか。

 

 私たちは、日本やアメリカやボリビアの四方山話をした。経済を専攻しているルディアには、当時好調だった、日本の秘密が知りたいようだった。彼女はほかの多くの人間のようにこう聞いてくる。

「なぜ日本はこんなにうまくいっているのかしら?」

 

 そのころ日本はバブルの先駆けで、すべてがうまく行っているように見えた。日本の成功とボリビア、あるいはアメリカの失敗。ボリビアIMFの管理下、構造改革が始まったばかりだったし、アメリカは双子の赤字の下、自動車産業の衰退と金融危機の只中にあった。

 今の日本の状況を考えると恥ずかしくなるが、私は得意げにいったものである。

 

「ただ、運がいいのさ」

 若かった私は、さまざまな外交的条件や時代環境が日本に適合していたという持論を展開した。それに日本の場合は、聖徳太子の和を持ってなすという言葉とおり、全体に合わせるために個人が個性を押し殺し、「個の不幸、国全体の発展」という状況を作り出していることを。そこが途上国らしからぬアルゼンチンやとりわけ先進国でもイタリアなどと大きく違うところであろう、と。

「まあ、しかたがないわね。歴史が違うから」

 

 彼女の浅黒い、少し疲れた顔には、民族の歴史が刻印されていた。それは長い収奪の歴史である。彼女たちの大地、とりわけ世界に名だたるポトシの銀山は、世界の資本主義の礎を築くために存在していた。その富みの多くはスペインに流れ、そしてイギリスへと終着した。

 

 ルディアはよくありがちな、自分の国の苦境をスペインやイギリスやアメリカのせいにすることはなかった。

「わたし、必ず幼稚園をつくるわ」 

 彼女たちは明日も早いというので、早々に席を立った。私はあわてて、歩いて行く彼女を呼び止めた。

 彼女が、どうしたの、と私を見る。私はどぎまぎして答えた。

「ルディア、あの、あの、ぼくの部屋は五三一だよ」

 彼女は怪訝な顔をしている

「いや、なにかあったらね。ぼくは寝過ごすから、もし朝見かけなかったら、起こしてくれる」

「いいわ」

「君の部屋は?」

 再び、なぜという顔付である。思い付きをいった。

「逆に君たち三人が起きられなかったらね、ぼくが。そう思うときっと寝過ごさないから」

 彼女は笑顔とともに部屋番号を教えてくれた。 

 

 同じエレベータに乗り、彼女らと「お休み、じゃあ明日」と別れた。

 

 部屋に戻ると、疲労のせいか繰り返し暗唱していたひとつ上の階にある、彼女の部屋番号を忘れてしまった。私は疲れた身体に鞭打ち、階下に下りてフロントで彼女の部屋番号をどうにか聞き出し、メモ書きして枕元に置いた。それはシングルルームだった。

 

 なかなか寝付かれなかった。何度も彼女の部屋のチャイムを鳴らそうかと思った。だが身体がくたくたで石のように重い。彼女も早めに眠りたいだろうと気遣ってしまう。そのうち、うとうとしているうちに寝付いたようだった。私は彼女がドアを叩く夢を見た。それは幸せな歓喜に満ちた夢だった。

 

 目覚ましの音に目が覚めた。もう九時過ぎである。八時に鳴るはずだったが。いや、目覚ましが鳴っても起きなかったのだ。彼女たちのフライトは九時半、私は午後である。

 慌ててベットから出た。ドアのほうをみると、下の隙間に新聞とともに、レター用紙が差し入れられている。

 私はドアへ駆け寄って、新聞の下からはみ出ているレター用紙を手にし、文面を見た。

 みるみる後悔と自責の念が、身体に渦巻いた。絶好の機会を逃してしまったのだ!

 レターにはこうあった。

 

 ドアを叩いたけど、起きないので行きます。

 好い旅を! 

 追記:あなたが私の部屋のドアを叩いた夢を見たわ

            ルディア

続く

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マイアミビーチは、Mango's tropical cafeのキューバ系シンガー


マイアミに無事到着したが

  ラブのカウンターにいるのは、ちょび髭ではない。彼は勤務が終わり別のもっと若い丹精な顔の青年となった。乗客の顔ぶれは無論今日も同じである。

 空港の電工掲示板は、Bordingのランプが点滅している。

 

 さっそくカウンターでマイアミからの乗り継ぎについて問い合わせる。翌日のアメリカンが確保されていた。マイアミでのホテルの宿泊券もある。その場にいくまでは本当かどうか信じられないが、なかなか手際がよい。私はラブの新たな地上勤務員に礼をいい、重要なことを聞く。

 

「で、飛行機は、別のかい」

「いいえ、同じです。もう今日は大丈夫」

「落ちない?」

「はは、ここ一年ぐらいは落ちてないから、大丈夫」

 わたしには「大丈夫」が「もうそろそろかな」に聞こえた。背後にいた女性三人組も不安気な表情である。

 

 機内に入っても、私はもう非常口のそばには席を取らなかった。馬鹿馬鹿しくなってしまったのである。こう考えた。

 

 もし飛行機が落ちたら、ラブはたいした保険金も出さないだろうが、それでも賠償でいよいよ潰れてしまうこと必至である。倒産したならこの経済状況下、そう簡単に従業員は職を見つけることができない。だから、整備には十分気を使ったであろう。パイロットも完璧な整備を要求しただろう。彼らも生活と命がかかっている。

 

 その代わり知っている神を総動員した。念入りに十字を切り、神様仏様にお願いし、それだけではなくアラーの神にまでお祈りしたのである。唯一知っている言葉、「インシェラー、アラーアクバル」とかぶつぶつ呟いたわけだ。

 

 それが利いたのか飛行機は空港に舞い戻ることはなかった。それに離陸が早朝になったおかげで万華鏡のような光景を楽しむことができた。

 蛇行するアマゾン川と広大な熱帯雨林、その中を横断し縦断する赤土の道路、まれに上がっている野焼きの炎、アマゾンの真中に開けたマナウスの白い街並み、ベネズエラのカラカスの高層ビル群、カリブの透明な海と宝石のように点在する島々、そしてパナマ運河、メキシコの広漠とした荒れた大地、最後は夜の光が溢れ始めたマイアミの街。

 

 マイアミ、それはアングロサクソンの下地にラテン、とりわけキューバの文化を敷き詰めた宝石のような街である。私は北から入っても、南から入ってもマイアミに着くと、ほっと息をつく。北から来たときは、スペイン語とその文化圏に入ったという安堵感、南から来た時は、やっと先進国に着いたという思い。この街は北と南を繋ぐ貴重な敷石である(続く)。

 

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ボリビア低地カンバの女性の誕生日 豚一匹プレゼントしてね。えー!

バラの花のような彼女と

 二台のマイクロバスに分乗し別々のホテルに向かった。バスの中は会話は少なく、なにか侘しい雰囲気が漂っていた。試合に敗北した後のサッカーチームを乗せるバスの中のようである。明日も試合があるが、勝敗は不透明な不吉な運命共同体

 こうなったらビクトル・パスのように君子豹変するべきだ!

 

 私はむしろこの体験を楽しむことにした。空港で口をきいた彼女も他の友人二人とともに、同じバスである。

 天の配剤とはこのことか! 

 胸のなかに桃色の温かい空気が流れ込んでいっぱいに膨らんだ。

 ラブが用意したのは、空港近くの郊外にある三つ星の白亜のホテルだった。空港で夜を明かすことを考えると、悪くはない。

 チェックインを済ませ、二階の部屋でシャワーを浴びる。昼の一時にオフィスを出てからもう九時間になる。身体がというより、精神が疲労している。その疲労をお湯が流れ落としてくれる。

 さっぱりした気持ちで、ひどく遅くなった夕飯のために階下の食堂に下りた。

 

 ちょうど、彼女たち三人組がいて、その隣の席が空いている。私はさり気なく座り、ラブが用意したクーポン券で夕飯を注文し、その間、新聞を読む振りをして聞き耳を立てた。

 試験とか教授とか家族とかの言葉が耳に入ってくる。新聞の隙間から視線を流すと、私に話し掛けてきた彼女は、バラの花のように際立っている。ほかの二人はまったく記憶に残っていない。

 肉とジャガイモをメインとした料理が出され、私は空腹を満たすため、一気に胃袋に掻き込み、あっという間に平らげる。食後のコーヒーを注文すると、

「こちらにこない」

 とバラの花が誘ってくれる。

 

 そそくさと彼女らの席に行き、食後のコーヒーをいっしょに飲んだ。 

 三人ともコーヤだという。コーヤとは高地のインディオ系の民族のことである。

 私は、低地の熱帯雨林の中の小村に住んでいたので、自分をカンバの日本人と紹介する。カンバとは、スペイン系の血が濃い、低地に住む人間たちをいう。両者はしゃべり方も性格も文化もまったく違う。コーヤといえば、歌はフォークローレ、寡黙、まじめ、働き者で、山高帽を被ったいわゆる日本のテレビに出てくるアンデスの民である。

 

 カンバのほうは、歌は明るいコロンビアのクンビア、性格は、遊び好き、賭け事好き、怠け者、饒舌といったイメージである。互いが別の国と思えるほど敵愾心に近いものを持っていて、その感情は大阪人の東京人に対するものに似ている。だがその敵愾心の強さはその数倍。東京系大阪人とか東京大阪混血児なんて日本ではいわないが、ボリビアでは両者の間に生まれた子は混血でカンバコーヤと呼ばれる。

 

 彼女たちはアメリカに留学中で、休暇を過ごした後で戻るのだという。明日はマイアミから国内便に乗り継ぎである。私の目にとまった娘はルディアといい、経済学を専攻している。アイマラ系の血をひいていて、父親は純粋のインディオである。 

 

「運がよかったの。教会の奨学金をもらって。それじゃなきゃ留学なんてできないわ。あなたはなにが専門なの」

 私ははにかんでいう。

「大学じゃ、中南米の研究とかってことになってるけど、まあちょっとさぼってたから、よくは…」

「生粋のカンバってことね」

 彼女は笑いながら皮肉をこめていい、さらに聞いてくる。 

「今は?」

「鉄道を作ってるのさ、サンタクルスから四〇〇キロいったジャングルの中で」

 私はプロジェクト内容を掻い摘んで説明する。

「そう、援助の仕事ね。ヒーカ(JICAのこと。スペイン語ではこう発音する)はラパスでもいろいろやってるわ。今はチチカカ湖のマスかしら。わたしも卒業したら貧しいひとたちの幼稚園をつくりたい」

 

 ルディアは、メスの匂いを振りまくだけの熱帯の女とは違い、何か純粋で高潔な雰囲気を漂わせている。私が滞在している熱帯雨林の中の小村の会話といえば、誰と誰がつきあっているとか、あの歌は最高だとか、彼女の踊りはなっていないとか。ああ、飽き飽きする。新鮮な知的な会話が欲しい!

 彼女はちらりと腕時計を見て、

 

「明日は違う飛行機が来るとかいってるけど」

「なら、いいけど、多分同じじゃないかな、掛けようか!」

 これは失言だった。ちょっと揶揄するような笑いが彼女の顔に浮かんだ。彼女は続けた。

「マイアミまで祈るばかりね」

 

 翌日は早朝出発の可能性もあるので、早めに切り上げ、部屋に戻った。ラブから電話がありしだいフロントからモーニングコールがあることになっていたが、私はちょっとやそっとのことでは起きないタイプの人間だったので、フロントにもし起きなかったらドアを叩いてくれと念を入れておいた。

 

―ああ、神様、別の飛行機でありますように! それにルディアといいことがありますように!   

 そう、願をかけて眠りについた。

 ドアが叩かれたのは、早朝、やっと夜が明けようとする頃である。ドアを出るとフロント係りがいる。案の定、電話したが起きなかったという。バスはあと三〇分で出るというので、飛び起きて、慌てて朝食のパンとコーヒーを済ました。トイレにも行けない(続く)。