チェ・ゲバラはただの山賊以外の何者でもない(3)

 4.山賊としての残念な死

住民を敵に回す
 ゲリラは基本的に金を支払って農民から食糧を調達していた。時には時価の3倍も支払って薬なども買っている。けれども、多雨密林地域ではすぐに道が途絶する。ある程度食糧の備蓄がいる。ジャングルの中での鉄道建設事業でも鉄道のストライキと豪雨のせいで一週間ほど交通が途絶して200人分の食糧が不足しそうになった。隣町の市場に出向いて野菜などを購入したが、市場にあるすべてを購入するわけにはいかない。日本企業が買い占めたと住民の反感が募る。 

 ゲバラにはそういう類の住民配慮が足りなかったか、その余裕がなかった。

「上下両方からやってくる農夫たちを次々に拘留していったので、多種類の捕虜を捕まえることができた」
「われわれは生活物資と大量のバナナを積載したトラックを、かなりの人数の農民もろとも強奪した」
「一軒は家の者全員が逃げ去ってもぬけの殻だったので、そこにいたラバを徴発した。もう一軒の家のものは全然協力的でなかったので、脅しに訴えなければならなかった」
 道案内に農民の男たちを連れていく時には、家に残された女たちは泣きわめいていた。
 
 イラクで家々を誰何して回るアメリカ軍と変わるところはない。
 このような態度では農民を味方にすることなど到底無理。ゲバラは6月と9月の解析で以下のように記載している。
「農民を補充兵として取り込めないままでいる。彼らは扱いにくい集団である」
「軍隊が実戦においてより有効性を発揮しつつあり、農民がわれわれを支援するどころか情報提供者になりつつある」

引き際を間違える
「敗北を匂わす風が吹いていた」
「万事が完全なカオスの風を呈しており、なにをどうしたらよいのか誰も分からない」
 3月20日付けの記載である。ゲリラ事業が5カ月弱立った段階で、まだ状況を把握できていない。海外プロジェクトの現場は筆者の経験だと最初の3カ月はなにをどうしたらよいのかさっぱりわからないという状況に置かれる。けれどもそのあとには徐々に周囲の環境を理解し、プロジェクトは進捗していくものだ。

 けれどもゲバラのゲリラ事業は違った。
 なるほど海外プロジェクトや投資の引き際の決断は、誰にとっても難しい。失敗したと分かっていても泥沼に嵌る事例があとを断たない。ゲバラは6月14日の誕生日には「39才になりゲリラとしての将来についても考えなければならない」と記していたのだが。結局、多くの若い命を死地へと追いやることになる。

山賊としての死を自ら予言する
 ゲバラボリビアで殺害される7年前に『ゲリラ戦争』を発刊している。その中でこう述べている。
「ゲリラ戦士は地域住民の全面的な援助に頼っている。これは必須条件である。このことは地域に横行する、たとえば山賊の場合を考えてみれば明快に理解できる。彼らは統制、リーダーへの尊敬、勇敢さ、土地勘など、ゲリラ軍が持つ多くの特徴を備え、とるべき戦術を正しく理解している事さえしばしばである。ただ一つ、欠けているのは人民の支持であり、だから彼ら一味は必然的に軍や警察に捕らえられて掃滅される」)『ゲリラ戦争 新訳 チェ・ゲバラ 中公文庫』

 67年10月8日ゲバラは部下とともに ボリビア軍に捕らえられ、翌日銃殺された。

バックパッカ―の星だったのだ

 ぼくは革命家になる前のゲバラは好きだ。「モーターサイクルダイアリー」などいい。旅行家で、詩人で名文章家である。早い話が、彼はこの時代のバックパッカ―の星なのだ。バックパッカ―が奇縁でカストロを知り、なんだがわからないうちに革命に参加し、成功し、政治家になる。それもキューバ人があってこそだった。
 彼は自身を見失ってしまった。ボリビアで革命家など早々引退し、左翼系ノンフィクションライターとなっていれば、どんなによかったことか。

 ろくな写真がなかった昨日訪れた「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」(http://che-guevara.jp/)は大盛況だった。ある中年女性は涙をながさんばかりに、「感動したわ」と言って出てきた。こうして世間はゲバラを英雄として崇めていく。宣伝、プロパガンダ、商業主義、反米主義などなどにおかげで英雄に祭り上げられる。
  
 一方、私は中学生のときから、世間を信じることができなくなった。