チェ・ゲバラはただの山賊以外の何者でもない (1)


 チェ・ゲバラはただの山賊だったし、自ら山賊としての死を7年前に予言していた。けれどもイケメンでかっこういい言葉を残したので
本を読まない若者の英雄である。是非、ゲバラファンは「ゲバラ日記」を最初から最後まで読んでもらいたいものだ。
 彼が連合赤軍を少しプロ化した山賊であり、イラクアメリカ軍よりもへたするとひどい存在であったことがわかるだろう。
 黒を白といいかえるような風潮は決していいものと思わない。山賊は山賊なのだ。まあ、そのような犯罪組織が好きな人は別だが。

 本編は「ゲバラ日記を海外進出の反面教師にする」を詳細化したものです。



白い白鳥のようにだって

 ゲバラ日記(1966年11月〜67年10月)を読んだのは中学1年のときだった。地元に来ていたゲバラを「白鳥のよう」と英雄視する映画「ゲバラ!」を見て、興味が掻き立てられた。読後、幻滅した。ゲバラが率いたゲリラは他国に土足で踏み入れ、住民にとてつもない迷惑をかける盗賊集団以外の何者でもなかった。その後、なぜ世間がゲバラを持て囃するのかさっぱり分からない。
 紹介されるのが彼の反米的な言葉とキューバ革命の成功によるものだろう。けれども、「わが言を聞け、猥なり。わが行を見よ、正しい」(ローマ帝政時代のストア派哲学者セネカ)の言葉と逆で、「わが言を聞け、正しい。わが行いを見よ。猥なり」が チェゲバラだ。



 この夏東京で写真展「チェ・ゲバラが見た世界」(8月27日まで)が開催されているのを機に 40数年振りに『ゲバラ日記新訳』(中央公論)を再読してみた。私の中学のときの読み方は正しかったと再認識した。と、同時に、ボリビアの密林の臭い、知人のボリビア人たちの顔をまざまざと思い出した。
 私はゲバラが一年弱ゲリラ戦を展開したボリビアサンタクルス州で2年半ほど鉄道敷設の援助プロジェクトに従事した。その後、数々の海外プロジェクトに関与したが、ボリビアでのゲバラの戦いほど杜撰なものは見たことがない。せっかく克明な日記(海外プロジェクトで求められる日報、週報、月報に相当する)を残してくれたのだから、それを海外進出事業の反面教師として活用しない手はない。

1.ボリビア前史
扱いにくい外様の古参幹部は海外へ
 ゲバラキューバ革命成功後、工業大臣や国立銀行総裁になるが、はかばかしい業績は上げられなかった。反革命派を粛清する血生臭い粛清や、理想を声高く述べるのは得意だが、他にこれといって活躍できる部門はない。アルゼンチン人で外様である。その上、キューバが後ろ盾となってもらうソ連に対して歯に衣着せない批判までする。このような幹部は外に出てもらうに限る。本人も自分の立ち位置に気がついてそれを望んでいた。窓際幹部だったわけだ。

最初の海外進出は大失敗
 ゲリラ戦の場所として選んだのはコンゴだった。1960年にベルギーの植民地支配から独立したが、地域・部族の利害対立からすぐに内乱が始まりベルギー軍の介入を招いていた。一見すると、ゲリラが活動するには絶好の国? けれども、エジプトのナセル大統領やアルジェリアのベンべラ初代大統領は大反対している。「白人のゲバラブラックアフリカで成功するはずがない」
 案の定、言葉もわからないキューバ軍は国内情勢をまったく把握できないまま、6か月ほどで撤退する。現地の軍隊は規律もなく、呪術師が支配する社会であった。
「アフリカは、ほんとうにとんでもない所だ。人間はとっつきづらい、まったく異なるそれぞれの部族が独自の首長と領土と〈くに〉を持っていて、それでいてひとつの国の中にみんな住んでいる。ほんとうにむずかしいけど、彼らが革命を取り入れる可能性はある。キューバ人はその点が上手だから」(『コンゴ戦記 1965』現代企画室 末尾の解説 太田昌国)
 ゲバラは黒人系のキューバ人の先祖はアフリカだから、うまくいくのではとでも思っていた節がある。けれども、たとえばレゲィ音楽とも関連するジャマイカのラスタファリは、エチオピアハイレ・セラシエ1世を神とし、故郷アフリカに戻ろうとする運動であった。そして、ハイレ・セラシエがジャマイカの人々に土地を提供すると申し出たところ、誰もエチオピアに回帰した者はいなかったのである。

2 杜撰な事前調査


















進出国をまた間違える 
 ボリビアは1952年から64年まで社会主義革命政府が、資源国有化、農地解放などをすでに行っていた。が、副大統領だったレネ・バリエントスがクーデターを起こし、炭鉱労働者などから成る社会主義者への締め付けを強化していた。
 今度は言語も同じスペイン語で、アルゼンチンの隣国だ。コンゴよりは成功の可能性がありそうに見える。けれどもボリビアはアルゼンチンやキューバと比べると、民族、歴史、文化、社会が多様に折り重なる重層的な国で、よそ者が国民を解放できるような所ではない。たとえば、戦後の混乱期に多国籍軍が日本国内でゲリラ戦を展開したとして、成功するか?

進出地域選定の大失敗


 ゲバラが進出先に選んだのは、ボリビア南部、サンタクルス州とチュキサカ州の境である。低地と高地の境目で密林山岳地帯への入口である。降雨が多く蚊やダニも多い。普段は暑いが、6月24日のサンフアンの祝日前後から、時々スル(南)と呼ばれる南極からの冷たい風が吹く。すると朝夕は寒い。鉱山はなく零細農牧業が主体である。村が点在し、人は疎ら。民族的には、高地系の先住民のケチュア族、先住民とスペイン人の混血、低地のグアラニー族との混血、白人などが混在している。
 ゲバラは農民革命を目指していた。
 ところが、クーデター後選挙で大統領に選ばれたバリエントスはケチュア系先住民の多いコチャバンバ州タラタ出身。演説はケチュア語で行っている。農地解放も続いている。また、先住民にはインディオ基礎共同体あり、共産主義など必要としない。バリエントスは先住民の農民には人気が高かった。今もボリビア史上農民の心を最もわかってくれた大統領とされている。一方左翼系の鉱山労働者やその組合とは対立し、彼らを虐殺している。
 進出地域に相応しいのは、鉱山地域だった。たとえば標高4000mのポトシ(世界史にも登場する銀山があり、今は細々と錫をとっている)、あるいはやはり錫鉱山があった標高3800mのオルロの山中が適切だ。筆者が親しくなったオルロの美術館長は、ばりばりの反米共産主義者だった。
 けれども、高地は酸素が薄い。アルゼンチン人、ましてやキューバ人が活動できる環境ではない? 筆者はポトシで、試しに場末の酒場数軒でビールを何本も飲んだが、夜、心臓がばくばく音を立てて鼓動し、朝まで眠れなかった。
その反対に、酸素の薄いアンデス高地から酸素の濃い低地に降りてきたコーヤ(後述)は、太腿が膨れ上がり、体調不良となることがある。ヘモグロビンの量が増えすぎるからである(続く)。