さて、さて、このカリブの島々はどれほど美しいのだろうか。
これまで、3つほどの島にいった。島によって特徴がある。魚も違う。大きさも色も。同じなのは10月から11月にかけて、午前中は蚊が多くてまいるということ。
「かい、かい、かい」
いっしょに行った同僚がみな大声を出して、海の中へずぼーん!
浜辺にいられないのである。だから海へ入る。泳ぐ。もぐる。見る。
Cayo sombreroなる島は死滅した珊瑚の洞窟があっちこっちにある。むしろ浜辺近くは深く、背がが立たない2メートル前後の水深である。
金槌にはつらい。その深い部分をほうほうのていで超えると、珊瑚が隆起し、とたんに浅瀬になる。珊瑚が作る凹凸の中に魚があちらこちらに泳いでいる。
洞窟の奥へはいってもすぐに出ると珊瑚の上に立てるので安心だ。だから、1時間近く安心して飽きずに泳ぐことができる。
けれどもやはり悲しいかな半ば金槌。安くもののベネズエラ産のシュノーケルはちょっとしたはずみで、水中眼鏡の中に水が入ってくる。そのたびに眼鏡をとって水をかき出す。
浜辺に戻るときだった。
急に水中眼鏡の中に水が入ってきた。
げぼげぼげぼげば。
水中眼鏡をとる。
えふえふえふえふ げぼー
口から喉に塩水が入った。
まずいことにシュノーケルが水中へぶくぶくぶく。
あわてて、もぐって手にした。背がたつか? 立たない。シュノーケルと水中眼鏡をもういちどつけなおすためには立っていなくてはできない。
シュノーケルを手に、水中眼鏡はどうにか顔にかけ、平泳ぎで泳ぐ。浜辺まで40−メートルぐらいか。
もう疲れているので20メートルも泳げない。
このままおぼれ死ぬのか?
死ぬ寸前は人生の走馬灯が走る。一瞬が数十年の重みを持つ。 それはフィリピンで拳銃をつきつけられて、数十分原野を歩いた、知人の商社マンの話である。
ぼくがまず思い出したのは、数年前の海での出来事。日本だ。
そう。伊豆の妻良(めら)でも同じ目にあった。
妻と子供はどこか深いところで遊んでいて、ぼくひとり、岸辺にはりめぐらされた命綱から離れてしまい、浜辺まで必死で泳いだ。何度ももうだめだ、と思った。
2 0メートルほどの距離なのだが、疲れていてなかかな進まない。
あーあ、思えば面白いのような、まあたいしたことのない、拭けば飛ぶような人生だった!
死ぬのもひどく惨めな事故だ?
金槌、無理をして沖から15メートルで溺れ死ぬ。まわりは誰もきずかず。
恥ずかしくて助けを呼べない。
あーあ。
今回も同じだった。
疲れてー10メートルぐらい泳いで、もう死ぬと思い、最後の手段と、もぐってどこかに珊瑚がないかを探す。すると右前方にある。あわてて、そちらへ行き、死んだ珊瑚の上に立つ。
立てる。やった!
息をつく。
はーはーはーはー!
死んだ珊瑚が命を助けてくれた。金槌はいつも生死を感じる。刷新できるのだ。
ざまあみろ、泳ぎ達者のやつら。荒川の鉄砲水め!(北島のこと)
ところで、浜辺で拠点にした場所の隣には、ずっとおかまの4人組がきていて、海の中で抱き合い、キスしあい、ひどくおさかんであった。
同じような意味合いのことを書くと、Playa Azul, Boca Secaなるふたつの島にも行ったが、いずれも女性は美人が多い。島に行くにはボードを仕立てるのでお金がかかる。
つまり美人度と富はほぼ比例している。美人のいる場所とそうでない場所は決まってくる。
それにしれも、このベネズエラは美人国といわれているが、ほんとうにそうなのだろうか? ちょっと寄り道をして、次回は美人と移民を考える。