美というのは残酷だ。生まれながらのものである。もちろん、時代や場所により何が美であるかという定義、集団幻想、民族の意識には違いがあるものの、美人といった場合、ある程度、普遍的な美というものがあるような気がする。
ベネズエラはミスユニバース大国である。これまで5回の栄冠が人口3000万人に満たないベネズエラの女性に与えられている。ところが、ラテンアメリカの美人国はよく3Cといわれているコスタリカ、チリ、コロンビアだ。
ぼくが知っている限りは、チリとアルゼンチンは美人度が高い。確率が高い。
南米に詳しい人間は、ベネズエラが美人国などとは決していわない。
20年前、ベネズエラを訪れたとき、うーん、なーんと美人の少ない国か、ラテンで最低! とがっかりした覚えがある。
ただし、一度だけ、ぼくの薄汚れた心が洗われるような美人を路上で見て、うっとりしてしまったことがあった。
そんな国になぜ、ミスユニバースが多いのだろうか?
理由がある。ミスユニバース養成学校があるのである。意思あるところに道はあり。短にちょっときれいといって、美人コンテストに出るのでは、世界一の栄冠の座を得ることはできないというわけだ。
とはいえ素質がなければいくら努力しても無駄だ。ならばどこかに美人はいるはずだが?
今回、ベネズエラで半年ほど暮らしてみて、よくある、しかしベネズエラでは他の国よりもずっとあてはまる冷厳とした事実に気づいた。
美人はいるのだ。特定の場所に。
ただ、下町を歩いているだけではいけない。オフィスにいるだけではいけない。
日本レストラン(すし屋)、高級レストラン、ディスコティック、大学、それらの場所の美人確率は日本よりもずっと高い。
つまり、お金持ち=美人 お金持ち以外の人=美人ではない、
そういうはっきりとした図式は成り立っている。
ある同僚がこういったことがある。「ここのナイトクラブはほんと美人がいないよな。考えれば、美人だったら金持ちと結婚しているから、こんなところで働く必要もないもんな」
もちろん、美人、金持ちと結婚できる=幸福、とはならないことが往々にしてある。それは、人生のままならなさや、逆に神のしたでの平等を思わせる。
さて、ベネズエラ、場所によって美人はいる、美人は美人の場所に、そうじゃないひとはそうじゃない場所に。格差と言おうか、それとも 類は類を呼ぶと言おうか。それをぼくの経験から、もう少し拡大して考えれば、たとえば、
アルゼンチンとウルグアイの国境、スペインとポルトガルの国境、この国境を越えるととたんに美人がいなくなる。
なぜだろうか?
マリアはこういう。
「ここにいては私はだめだ。まわりは美人ばかり、ほかの場所にいって男を見つけて結婚しよう! さもないと私の幸せは無い」
「わたしもそうするわ。私あなたよりはまだましで、ここで確率があるけど」
アマリアはこう答える。
そして、彼女らは旅立つ。
遠い昔からこう考える女性がたくさんいたのである。断言しちゃおう。
たとえば、女性ではないし美とは無関係だが、ぼくは日本にいてもまったくダメ、社会から相手にされないので、仕事をするために外国へ行くわけだ。それと同じである。
しかも昔は社会情勢が違う。
すくなくとも経済が男性に多く依存していた時代は、男を見つけることが死活問題なのだ。それはホームレスの女性が頼ることができる男を早急に見つけなければならないのと同じである。そして国境、あるいはその当時は国境もない時代だったかもしれないが、それを超える。
すると移動してきた国では、美人でない女性はますますいなくなる。そして、移動した国では美人ではない女性が多くなる。こうして、何世代も遺伝が繰り返され、美人国は美人国へ、そうではない国はそうではない国へと純化していったわけだ。
ではベネズエラはどうだろうか?
ここは地理的に逃げ場がない。東側と南側はジャングル、北は海、西は山脈、そこを越えたとしても美人国のコロンビアがまっている。
超厳しい環境なのだ。
こんなふうに美人とそうじゃない人がいる場所が二分した状況には、チャーベスのような大統領が登場し、いっそう人々を二分し、憎しみをたきつける土壌が存在しているわけである。
(写真は大学生 法学部、弁護士の卵の女性たち)