バルガス・リョサのノーベル文学賞に思う

バルガス・リョサノーベル文学賞を受賞した。ぼくは彼の熱心な読者ではなく、最後まで面白く読み通したのは初期の『都会と犬ども』ぐらいしかないのだが、へー、まだ受賞していなかったのか、というのが感想である。

 ラテンアメリカ文学の3大巨頭といえば、すでにノーベル文学賞を受賞したガルシア・マルケス(コロンビア)、オクタビオ・パス(メキシコ)、そしてバルガス・リョサなのだから。

 さて、ラテンアメリカの文学は、ガルシア・マルケスを筆頭に、魔術的リアリズムが特徴といわれている。けれども、マルケスは「事実を述べているのだ」といっていたと思う。
 そう、この地では魔術的リアリズムは日常なのである。

 たとえば、拙著の『ラテンの秘伝書』では、反オカマ革命が出てくるが、すべての読者は作り事と考えたようだが、これは事実なのである。場所はパラグアイ、時代は、確か1998年か9年だったと思う。

 娘婿が長期独裁者のストレスネルとその息子に反逆したのである。息子はオカマで陸軍の上層部にいた。出世するのはおほもだちだけ。つまりお尻をかさないと地位を保てない組織だったのである。

 その息子に大統領職を委譲するという話がもちあがったので、「オカマ政府にさせてたまるか!」とストレート(普通に女を愛する人々)の人々がオカマに対して反旗を翻したクーデターであった。

 それはニューズウィーク誌でも記事になり、そして、私の友人がパラグアイで、クーデター側の声明「この国をオカマっぽの自由にさせてなるか!」を聞いているのである。
 
 『ラテンの秘伝書』の読書感想で、人間はどこでも同じという意味の感想が述べられていたが、それは残念ながら表層の見方である。人間の心、行動は、生きてきた場所、基層文化により、まったく違うのである。

たとえば、もっともわかりやすいのが性に対する考えであろう。
北の文学の代表、ドフトエフスキーの『悪霊』では、主人公のスタヴローギンは少女(12歳?)を陵辱し、自殺に追いやる。それもひとつの原因としてスタヴローギンも自殺してしまう。

まさに北の文学である。
中南米だったらどうであろう。

むしろ、12歳の女性にさえ、逆に男が誘惑されるだろう。関係を持ったら、「もう一回して」とせがまれるであろう。
そして、最後は「親がうるさいし、あなたの奥さんだってうるさいから、どこかいっしょに逃げて」といわれるだろう。

つまり、悪霊のもっとも大きな主題、罪の意識は、まったく成り立たなくなってしまうのだ。