*戦場の性の真実 慰安婦のリアリティの1

 戦場は平時の悪が善になり、善が悪になる価値が転倒した世界である。平然と人を殺せる人間こそが英雄となる。モラルは簡単に瓦解する。人の地金が現れる。あるいは人間が人間でなくなる。そんな戦場の性のリアルティを描いたのは作家の田村泰次郎をおいて他にいない。  
(本文はどのマスコミも尻ごみをして掲載できない真実を描く目的で掲載することにした。また、田村のような事実を知る人間が、さほど触れられないことにも私は長年疑念を抱いていたのである)

なぜ今田村泰次郎を取り上げるのか
他者の感情に寄り添う
 平昌オリンピックでもっとも印象に残るのは、女子500m決勝で勝利した小平奈緒選手がレース終了後、2位に終わった李相花(イ・サンファ)選手を抱きかかえていた場面だろう。国と国がどうあれ、個人は仲良くなれる。

 けれども国民感情や国の政治は別だ。オリンピックが終わるとさっそく康外相が国連で慰安婦問題を持ち出し、文大統領も「慰安婦問題は終わっていない」と演説し、韓国は、再び慰安婦の問題を蒸し返している。日韓合意は基本的に履行するようではあるが、それでも国民が心情的に受け入れられないという。戦後の賠償請求にしろ、今回の日韓合意にしろ、それぞれ完全かつ最終的な解決、最終かつ不可逆的な解決という文言が入っている。

 条約や外交的合意は、法律的、すなわち合理に根ざしている。けれども、感情や心情は、理性や理屈ではないのだから、治まることはない。ましてや水に流す日本と違い、恨(ハン)の文化といわれる韓国である。日本でさえ、いまだ民族の記憶として700年以上前の元寇が生き続け、機会がある度に、神風とかむごい(蒙古(もんご)い)などという関連する言葉が蘇って来る。
 外交上は、日本は終結した問題であるという方針で押し通すとしても、他民族の感情を理解しようとする姿勢は不可欠と考える。


第二次世界大戦は遠い記憶となった
 筆者はベネズエラで仕事をしていたときに、韓国人の若者と何度も接する機会があった。彼らの中には第二次世界大戦で日本と韓国が戦ったと誤解している者がいたし、他のベネズエラ人やドイツ人もそう考えていた。もしかしたら日本の若者の一部もそのように考えているかもしれない。そのようなありさまなのだから、慰安婦について実情を知っている人は少ないことだろう。

現場にいた人間だけが分かる真実
 慰安婦については文献調査、聞き書き調査など夥しい数の書籍や文章があり、『慰安婦と戦場の性』(秦 郁彦 新潮選書)のような労作もある。けれども実際に現場にいた加害者側の作品でリアリティのあるものは少ない。
 筆者の経験からいうと、目的は全く別としても海外投資や援助は文化や価値観の違う人々と接するという意味で戦場と似ている。これまでアマゾンや中東の砂漠や犯罪がうずまく世界で働いてきたが、実情はやはりその場にいた人間でなくては分からないという気持ちがある。

 田村はこう語る。「いまも私は、一兵士でなかったひとの戦争小説は信じる気持になれない。その点は、実に頑迷なものがある。実戦の体験者だけが、戦争小説を書ける資格があると、私は本気で考えている」(『春婦傳』自序 東方社) 続く