戦場の性の真実 慰安婦のリアリティの2

田村村泰次郎は生き証人だった
 田村泰次郎は、戦後の性風俗を描いた『肉体の門』の作家とされるが、『肉体の悪魔』『裸女のいる隊列』などの事実を反映している、戦場の性を扱った作品のほうにこそ秀作がある。
田村は昭和15年招集され、21年の復員まで、山西省で6年弱、一兵卒として戦っている。属したのは独立混成第4旅団の独立歩兵第13大隊の旅団司令部の演芸宣撫班や工作班(=情報収集)である。隣の第14大隊は中国人慰安婦らに山西省孟県で性暴力を振るったと提訴されている。田村と親しかった文芸評論家の奥野健男は、田村は実際に慰安婦と係る任務についたという意味のことを書いている(末尾 筑摩現代文学大系第62巻)。まさに生き証人であり、しかも慰安婦に向ける視線は、研究書などと違い、上目使いではない。いっしょに釜の飯を食べた仲間の目線なのだ。
 そこで、慰安婦を列車で移動させる任務に就いた軍曹を主人公にした「蝗」を中心に一部抜粋して紹介しよう。差別用語や残酷な場面があるが、そのまま掲載する。

「蝗」

同国人の女衒に連れられてきた女たちを輸送する任務についた
 白木の空箱を宰領して、黄河を渡り、洛陽をめざして、そこに近い、河南の平野のどこかにいる兵団司令部まで送りとどけるのが、原田軍曹の役目であった。(中略) 彼の任務は、実はそれだけではなかった。この車輛のなかで、夜ふけだというのに、狂ったように声をはりあげて歌っている五人の女たちを、原駐地からそこへつれて行くのも、彼の別の任務にちがいなかった。
 そのほかに、もう一人の男が同行していた。女たちの抱え主で、朝鮮人の金正順である。前線の兵隊たちの欲望を満たさせるために、自分の抱えの女たちを、そこへつれて行くという、りっぱな名目の裏で、憲兵隊の眼の光らない場所で、阿片を売買しようとするのが、この男の目的であった。

朝鮮半島慰安婦は同国人によりリクルートされたと考えるのが自然だろう。現地の言葉や現地の事情に通じた人間が接するほうが何事もうまくいく。しかも女衒なのだから、犯罪傾向がある人間も中にはいたであろう。国に係らず、売春や覚せい剤の販売は、マフィアやヤクザの主業務である。
 なお、白木の空箱とは戦死者の遺灰などを納めるためのものである。

輸送中に女たちは明日の命を知らない兵士たちに蹂躙された
「貴様が、引率者か。チョーセン・ピーたちを、すぐ降ろせっ。おれは、ここの高射砲の隊長だ。降りろ」(中略)
「自分たちは、石部隊の者です。この車輛のなかには、前線にいる自分たちの部隊へ輸送する遺骨箱が載っているだけであります」
 風の唸り声に、原田の声はかすれて吹きちぎれた。
「嘘をいうな。前から八輌目の車輛のなかには、五名のチョウセン・ピーが乗っていることはわかっているんだ。新郷から無線連絡があったんだ。命令だ。女たちを降ろせといったら、降ろせっ」
 酔っ払い特有の、テンポの狂ったねちっこい語調で、そう叫びながら、将校は腰から、刀を抜いた。刀身は、腐りかけた魚腹のように、きらりと鈍く光った(中略)。 
 ここへくるまでに、開封を出発しでまもなく、新郷と、もう一箇所、すでに二回も、彼女たちは、ひきずり降されていた。そのたびに、その地点に駐留している兵隊たちが、つぎつぎと休む間もなく、五名の女たちの肉体に襲いかかった。

直接軍や官憲が慰安婦リクルートしたかどうかが、賠償という面からは法律的には重要になる。けれども女衒がリクルートしようが、業者が運営しようが、慰安所は軍が監督していたのである。彼女らの輸送にも軍が関わった。
 筆者は政府機関に委託された業者として働いたことは何度もある。第三者、とりわけ外国人から見れば、政府機関の一員と見られたものだ。

金を支払わないこともあった
「チキショー、パカニシヤガッテ。アイツラ、アソプナラ、アソプテ、ナゼカネハラワナイカ。カネハラワズニ、ナニスルカ」
 空っぽの遺骨箱のあいだのもとの座に戻った彼女たちを見降ろしながら、原田は彼女たちの口々の叫び声を聞いていた。兵隊たちは彼女たちを抱くだけ抱くと、まるで汚物を捨てるように、未練気もなく、その場に放り出した。

5人は別の街で売春婦として働いていた女性である。当然、支払いを要求するし、前線に行くので希少価値があり、「街にいりよりも儲けが多い」といわれて勧誘されていたのは、想像に難くない。また慰安所に行けば、経営者が悪質でない限り、金は支払われたのである。けれども、時にレープまがいのことが行われていた。

明日の命が儚い戦場で生は性と重なった
 彼らはその地域の守備隊ではなかった。こんどの作戦のために、大陸のあちらこちらから、ひき抜かれて、そこへ移動してき、また明日、どこへ移動して行くかも知れない、そして、同時にそのことは、明日の自分たちの生命の保証を、誰もしてくれはしない運命のなかにおかれた兵隊たちなのだ。束の間の短い時間のそれは、彼らが頭のなかで、いつも想像しつづけている豊かな、重い、熱い性とは似ても似つかぬ、もの足りぬ、不毛のものではあったが、しかし、それは彼らがこの世で味わう最後の性かもしれないのだ。飢え、渇いた、角のない昆虫のように、彼らは砂地の二本の白い太腿をあけっぴろげにした女体の中心部へ蝟集した。

戦場に自分がいると仮定して、自分だけは超然としていると言える人はどれだけいるだろうか? 筆者は自信がない。「蝗」の後書きにはこうある。
「そこにある絶望的な勇気、他人に知られたくない卑怯さ、集団のなかの孤独、生命への慢性的な不安、気ちがいじみた情欲、あらゆる瞬間における獣への安易な変身、戦場にある、そういう一人の兵隊に執拗につきまとうものを、私はどこまでも追求して行きたい」
 また、田村は54歳になってこう書いている。
「かつての戦場で、自分が人間以外のものであったことをみずから認めるために、そのときの原体験の忠実な表現者でなければならないという気がしている」(「戦争と私 戦争文学のもう一つの眼」)
 続く

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ところで米朝対話が始まりそうだね。一部の新聞は、戦争だ、斬首作戦だ、などと煽っていたが、そのようなものは被害甚大だし、しかもできるわけがない。キューバ危機のときにもし米海兵隊が島に侵攻していたら、全滅していたのだから。イラクとは違う。
 ご参考:北朝鮮危機を前にトランプ大統領に読ませたい珠玉の一冊