戦場の性の真実 慰安婦のリアルティ3

戦場と戦争こそが格差を残酷にあぶり出す
 彼らの駐屯していた山西省の奥地にも、鉄道沿線の街には、芸妓と称する日本のしょうばい女たちも、いなくはなかった。だが、彼女たちは、決して鉄道沿線の街から、生命の危険の多い、もう一つ奥地へはいってこようとはしなかった。街での彼女たちは将校専用で、小粋な部屋に起居し、そこには、たまに街へ出ても、兵隊たちは立入禁止になっていた。
 兵隊たちは、奥地で指定された場所にいる中国人の女か、また別の、ちがった場所にいる朝鮮人の女たちのところへかようことになっていた。

―軍隊は当然のことながら、地位による格差の世界である。将校や高級参謀と一兵卒は別の世界に生きている。
 最近はこの日本でも、威勢のよいことを書いったり言ったりする作家や論者が目立つ。彼らの多くは若くはないし、識者とされる人々である。戦場には出ない。その威勢のよさに乗せられる若者、とりわけ格差社会の下部にいる人々こそ、戦場でもっとも苦難をなめる。慰安婦も当然のように貧困家庭の出が多かった。慰安婦の日常を描いた『春婦傳』にも以下のような文章がある。

「将校たちのなかには自分をよっぽどえらいものと思いあがっていて、女たちを人間のようには思っていない者が多かった」
「ところが、兵隊たちは、たまに沿線の町へ出張しても、肩の星と、うすよごれた服装とで、日本の女たちから軽蔑されて、問題にされないので、みんな日本の女たちを罵りながら、ゆくさきはやっぱり彼の女たちのところである。彼の女たちは、さういふ兵隊に真剣になって立ちむかってくれるのだ。兵隊たちは彼の女たちと、愛しあったり、泣きあったり、喧嘩したり、罵りあったりして、わづかに生甲斐を感じた」

従軍慰安婦といわれる理由
 列車は黄河北岸までしか通じていなかった。それからさきは、列車から降り、みんな、徒歩で、こんどの作戦のために工兵隊が王河に架けた仮橋を渡らなければならなかった。
 昼間の渡河は、いつ敵の戦闘機P四〇の銃撃を受けるかも知れないので、危険であり、大部隊の行動は夜間にきめられていた。地上は日本軍の制圧下にあっても、制空権は敵ににぎられていた。(中略)
 夜どおしの行軍で、行軍部隊の兵隊たちはあかるいうちは、死んだように横たわり、家のなかで眠っているので、女たちは彼らにつかまる気づかいはないが、それでも原田は、彼女たちに宿泊している家から、そとへ出ることを厳重に戒めた。

―ただの慰安婦なのか従軍なのかという論争があったように記憶している。従軍という言葉は、看護婦、通訳官などの軍属を連想するらしい。「蝗」に登場する慰安婦は軍といっしょに行動している。筆者はむしろ、その意味で従軍が相応しいと考える。だから、彼女らの運命はいっそう軍の運命と重なる。

慰安婦の運命
「アア、コンナイイテンキハ、ユジヲデテカラハジメテタヨ、ハラタ」
 ヒロ子はヒロ子なりに、心の底から、そう思うのだろう。お互いに扉の上に横たわったまま、ヒロ子は青白い腕をのばして、原田の手をにぎりにきた。(中略)
 ここが戦場のなかであるということを、どうしても自分の心に納得させることが出来ないような、のどかで、静寂な時間が、そこにあった。みんなは、その時間のなかにひたり、陶酔していた。そのとき、だしぬけに、原田は眼の前の石畳に、轟音とともに、黄いろい火柱が立ち、耳のあたりがなにかで殴りつけられるのをおぼえた。鼓膜がひどい衝撃を受け、無感覚になった。

 扉をはずして、院子に持ちだし、その上に横たわって、さっきから快さそうな昼寝をむさぼっていたヒロ子の身体が、その瞬間、弾かれたみたいに、二、三回、回転して、両肢を思いっきり伸ばし、小刻みに痙攣するのを見た。だが、そのように見えたのは、原田の眼の錯覚で、右の肢は左肢のように伸びてはいなかった。伸びていないどころか、それは、普通、誰でも知っている肢というものの形ではなかった。膝関節から下の部分は、単にぶらさがっているにすぎないように思えた。それを見たとき、彼は一種いうにいえない不快感をおぼえた。そこになければならない、足の形をした部分がなくて、別の場所に、その欠落した部分がくっついているのである。

―原田と彼の部下は瀕死のヒロ子(朝鮮名ではなく源氏名で呼ばれた)を患者収容所へトラックでつれて行ってもらおうと必死に頼み込むが、食糧他の物資で山積みの車輛部隊の隊長は、あっさりと断るのだった。
「廃品はどんどん捨てて行くんだ。いつまでも、そんなものを抱えこんでいたんでは、戦闘は出来んぞ、身軽になれ、身軽に」

 朝鮮半島出身の慰安婦を含め、慰安婦は多くは帰国できたようだが、一兵卒たちといっしょに、東南アジアの密林で、中国の平原で、太平洋で、戦死したものもいたのである。たとえ自分の意思としても、より前線へと派遣されたのだから、朝鮮半島慰安婦のほうが、日本人慰安婦よりも死亡率は高かったことだろう。

 また、田村は中国戦線から20数年後にこうも書いている。
「か弱い、無力な花々にしかすぎなかった彼女たちを、私自身は、裏にいかつい鉄の鋲のついた軍靴で、情け容赦もなく、ふみにじり、銃弾のとびかい、硝煙のたちこめる前線へすすみつづけ、敗戦によって、故国へ帰ることができ、いま、半身の自由がきかなくなったとはいいながらも、妻子とともに生きていることは、なんという明暗のちがいであることだろう。
 すべては運命という言葉で片づけてしまって、いいことだろうか。
 いまの私にはわからないが、強いてわかろうとも思わないのである」(昨日の花々)


机上の戦略・戦術と戦場は別だ
 現在の朝鮮半島危機にあって、シンクタンクにいるとき、随分昔に仕事上会ったことのある戦略家のエドワード・ルトワック氏のように北朝鮮への先制予防攻撃を唱えている識者もいる。彼ら、平和ボケの人々には田村の次の言葉を返したい。

「兵隊は敵と戦闘する場合、どんなに地形地物を利用しても、自分の銃弾を発射する場合は、すくなくとも自分のノド元から上を、敵の銃弾のとんでくる空間へ露出させなければならない。いかに用心深い兵隊といえども、彼が兵隊であるかぎり、最小限それだけの生命の危険を冒さねばならない。将校や、報道班員と、兵隊とのちがいは、ノド元から上を敵の銃弾に曝すか曝さないかのちがいである。そして、それだけのちがいは、決定的であるように、私には思える。(「戦場と私」)」