グローバルサウスで学び、旅し、働き、住んでみた―世界を潜入取材するー

ブータンのジュリアナ嬢とインドのアッシー君

 アッシー君とかジュリアナ東京とか、日本では遠い昔に忘れ去られた、バブル時代のあだ花のような言葉である。だがまだネットが普及していない時代には、文化はちょっと遅れて伝播する。舞台は1994年のインド、ニューデリーである。

 

 夕飯後に同僚といっしょに音楽に誘われホテルの地下のディスコティックに降り立った。欧米系の軽快なダンス音楽が開け放たれた入り口から噴き出てくる。入り口付近に、これから入ろうという、若い男女がそわそわと落ちつかない様子でいる。

 

 階段の途中で手招きしている女性の一群に気づく。インド系ではない。のっぺらとした目鼻立ち。日本人か? だがちょっと垢抜けない。4、50年前の日本人のよう。しかしニューデリーの緑に囲まれた小高い岡に立つ5つ星ホテルは、日本人のバックパッカ-が、足を向ける種類の場所ではない。

 といって中国人や韓国人ではなさそうである。人は所属する民族の固有な歴史や文化が醸し出す、言葉ではうまく形容できない雰囲気を漂わせている。その微妙な違いを嗅ぎ分ける能力は、遺伝子の中に組み込まれているのかもしれない。それは時代によっては死活的な能力の一つである。    

 

 私たち二人はちょっと警戒しながら、しかしいそいそと彼女たちのところへ行ってみる。

 女性は4人、20代前半の年齢である。年齢は想像がついても、ますます何人かわからない。日本人の文化の源流といわれる中国でも雲南に住む民族か、それともやはり似通っているミャンマーのカチン族か。彼女らは我々二人の颯爽とした容姿に惹かれたのか? まさか? 彼女らは、もっと現実的であった。中の一人がいった。

 

「ねえ、いっしょに中に入ってくれない、男性と入ると水曜と金曜はただなの」

 

 ディスコティックの中は照明が暗く隠微な感じである。フロアにはフラッシュライトが点滅している。各々ボーイに飲み物を注文し、互いを紹介する。どこから来ているのと聞くと、

ブータンよ」

 昔ブータンからイメージしたのは、丹前のような民族衣装、頬を赤く染めた子供たち、首都の昔ながらの街並み、いかにも田舎臭いという否定的なものであった。

 その後、コンサルタントとなってからは、一時、尊敬する国の一つとなっていた。

 ブータンはGNP信仰に組せず、GNH(Gross National Happiness)、国民総幸せ指数なる概念を第一としている。木々の伐採を厳しく管理したおかげで緑が豊富である。昔ながらの街並みが残っているのは、景観重視のため厳しい建設規制があるからである。労働人口の9割が農民で自給自足が可能である。産物は米、蕎麦、餅、漆、絹、紙、毛細工など。伝統を重視する王国で、鎖国的ではあるが、孤高を行く姿は日本の対極にある。ある意味で最先端を行く国なのである。

 

 しかしそのイメージは大きく崩れ去る。3人は清楚な服装だが、髪の長い女性はミニスカートで太腿を剥き出しにし、腕輪をごてごてと飾り立てている。

 彼女に聞いてみる。

「インドでは何を?」

「勉強、留学生よ」

「学費とか大変じゃない?」

「政府がお金を出してくれてるわ」

 国費留学生ということは私などとは違い、彼女たちは数年後には、きっと高級官僚になっているわけだ。  

「何を専攻してるの?」

「経済学よ」

「昨日、ブータンマツタケを食べたよ。一度、ブータンにはいってみたかったんだけど、ますます行きたくなったな」

 ある商社の駐在員宅で、日本ではお目にかかったことのない、マツタケを腹いっぱいごちそうになったばかりだった。だがブータン人はマツタケを食べないという。

「みんな夏休みで戻るわ。何もないわよ。退屈するわ」

「日本にいってみたいわ」 

ジュリアナ東京はすごいわよね、扇子を持って踊るのよね」

 彼女はちょっと夢を見るようにいう。

 九四年の夏である。まだバブル崩壊して間も無いことなので、彼女らは高校生のときに本やテレビであの狂騒を見たのだろう。

 男2人に女4人なので、私たち二人は彼女らと代わる代わると踊った。

 

 フロアで踊っているのは、欧米系のビジネスマンとインドの中産階級の上の人間たちである。音楽は無論ロック。

 夜も一時を過ぎると、メタリックな作りのディスコティックにも本来のインドが、復権する。本当に彼らがのれるのは、欧米の音楽ではない。それは借り物。どの国でも、祭りやライブハウスで観光客が去ったあとに、本来の文化が露になる。

 かつての植民地支配者が自ら住むために建設した緑深いニューデリーの街にあるこの5つ星のホテルも例外ではない。    

 

 チャカチャカチャカというリズムと、ヒンディー語の歌詞が流れると、フロアの踊り手たちは、ヒュ-と歓迎の歓声を上げる。そして手を高く翳して、ひらひらさせて踊り出す。民族の息吹が汗とともに噴き吹き出した感じである。レゲイを素早くした感じのリズムは、阿波踊りの源流を思わせる。沖縄のカチャーシーにも似ている。その後日本でも認知されるボリウッド映画のボリウッド踊りだ。

 

 私たちもそれを真似て踊る。私はジュリアナ嬢は遠慮して、ブータンのイメージにもっとも近い、細身で清楚な女性と繰り返し踊った。彼女の赤く染まった頬と汗だらけの身体に光が明滅する。

 インドレゲイが終わると、スローな曲になる。私たちは身を寄せ合って踊る。   

 私はインドの生活をきいてみる。

「恋人はできた?」

「できないわ。インド人は嫌いよ。図々しい感じで」

「それは北のアーリア系だろう。南に行けば違うよ」

「そうかしら。それに食べ物も、カレーばかりじゃ」

 留学中には誰でも留学先の国を貶したい気持ちになることがあるものである。文化や風習の相違から好き嫌いの振幅が大きくなる。だが帰国すると懐かしい感情で一杯になるものだが….

ブータン料理はどんな?」

「赤いお米や蕎麦とか、こんど手料理をごちそうするわ、アパートに来て」 

 真夜中過ぎまで踊って、再開を約束してその日は彼女らと別れた。

 

 数日後、ホテルの部屋に電話があった。階下で待っているという。今度は彼女ら4人のほかに若い男がいっしょである。同じ大学の医学部の学友だという。

 私は先日の続きで彼女と踊った。時々、女が余っているのを見つけたインド人が彼女らを踊りに誘う。中にはチベット系の亡命者の商人などもいて、

「父親が亡命して、もう何十年になるかな。政治はあまり興味はないね、関心あるのは商売さ」

などといって、ブータンのジュリアナ嬢に高価なプレゼントの話を持ちかけたりしている。

 けれども彼女たちは誰一人誘いに乗らない。私たち二人の面子のためではない。いっしょに来た学友とも踊らない。

 

 彼は何度もブータンの娘たちーブータンのジュリアナ嬢も含めてーを誘うがいつも拒絶に遇う。それでもめげずに女性の前に手を出すが、疲れているのとか、また後で、とか態の良い断りの言葉で撥ね付けられる。見るも気の毒である。最後は、座席で不貞寝を決め込んでしまった。

 

 国と国の関係を考えると皮肉である。中国と接しているという地政学的要因もありブータンの国家予算の半分前後がインドからの財政支援で賄われているのだ。

 私は彼女と踊っている最中に聞いてみた。

「せっかく、いっしょに来ているのになぜ踊らないの」

「インド人はいやだっていったでしょ、私たち全員が嫌いなの」

「じゃあ、どうして彼と」

「彼、お金持ちで車を持ってるのよ。だからきただけ」

 インドのアッシー君は、早朝になると、彼女らを忠実に寝床へと送って行った。

 

 日本に戻り数年して、上野のアメ横に安価なブータンマツタケが並び始めた。そのマツタケを見る度に現金なブータンの娘たちとインドの青年の悲しげな顔を思い出す。

 ああ、男はつらいよ

サイババ マグロの特上とろを出す 続く

南インド タミールナド州のバラティナティアム 素晴らしい