温度の違う広い湯船が3つ、肌のためとうたう泥の温泉がひとつ、サウナがひとつ、そして不思議なのだが、硫黄の気体を体のふきかけるための機械もある。
 さらに、アロマセラピーを使ったマッサージもある。

 よく子供たちが好きなので日本で行く箱根のユネッサンスと比べると、規模は大人と子供だが、それでも南米では多分、最大規模の温泉なのである。

 時折訪れ、9月には泊まった。ただ超満員で、昼に入ったときは藻とともにお湯がぬるぬると薄気味悪く、太陽光線は強く、なにやら眩暈がしてきた。

 だが夜、それは幻想的なのだ。ちょうど満月。人はさすがに疎ら。お湯はぬるぬるせずに、暗いので薄汚さも気にならない。時々、温泉から少し離れてある、高速道路を走る大型トラックの音が響く。お湯は熱く、仕事で疲れた体
から、ゆっくりと何かが抜けていく。

 早朝もいい。とまっている宿から10分ほど歩いて、温泉に行く。朝の8時。泥風呂の周りには、放し飼いにされた猿が、客が残した食い物をつつきにくる。

 入場料は覚えていないほど安く(確か7ボリバルぐらい、実勢価格1ドル以下)、行く価値が高い場所なのである。

 効用は、呼吸器、リウマチ、肌、消化不良とさまざま。実際、近所にはリハビリセンターがあり、とりわけ足の具合の悪いかたがたが長期療養している。

 先日も、仕事帰りに訪れ、夜、一風呂浴びた。 

 お湯に漬かりながら、年末も押し迫っていて、久しぶりに自身の人生を省み、自然「おまえは何者なのか?」と問いかけてしまった。普通、この年齢になれば多くの人間は定職を持っている。だがぼくはまだない。 

 通訳、屋根裏掃除人、商社マン、塾講師、美術イベントと美術カタログ作成、アマゾンでの鉄道建設アドミ業務、首相向け政策提言の作成、援助と投資のコンサルタント、作家業(今も『新潮45』他に書いています)、食品・居酒屋関連広報・イベント・新規ビジネス作成、そして今はベネズエラ駐在。学生時代の職を入れるとなんとも限りない。

 職を軸に考えると自分は何者なのか、さっぱりわからない。『生涯フリーター宣言』という企画本を考える所以でもある。

 この定まらなさは、流浪、不安、先の無さが始終伴い、ストレスが強い。

けれども、と思う。ある意味、これは刷新、生き直してであり、ある種の人間にはとうてい耐え切れない繰り返しの多い、退屈な人生への反逆でもある。

あるいは、ぼくの嫌いな『プロジェクト?』のような価値への反逆でもある。あの番組を見てぼくはいつも疑念を抱いてきた。端的にいえば、?の主人公たちの家庭はどうなっているのだろうか? 子供との関係は、妻との関係は、そして近所との関係は? 仕事以外の友人は?

ぼくは仕事人の前に、男、あるいは父親、家庭、友人を選びたいのだ。

  だから今の単身赴任の身はほんとうに堪えるのである。

  温泉の話がずいぶんと違う話になってしまった。

  今日は大晦日。一人だ。