異形の集団と勝つよりも負けたくなかった監督

 昨日と今日が違う。30分前と今が違う。自身が更新されたような気になる。それは圧倒的な小説や映画を見たあと、あるいは近親者の生死のあとの感慨である。そんなのは、人生にたぶん、10回あるかないかの機会かもしれない。

 今回はワールドカップに日本代表が存在した日としない日で、なにかが違っていた。それは近親者の死ほどではないとしても、死に伴う悲しみと自身の人生の更新を感じるすがすがしさを伴うものだった。

 その意味でかつて南米で見た86年のワールドカップ(メキシコ、アルゼンチン優勝、マラドーナの大会)とは大きく違う。あのときは日本の日の字もなかったのだから。

 予想外の日本代表チームの活躍に感謝したい。

 けれども、今回のチームは異形の集団であり、さらにベスト8に進出するには、やはり何かが足りなかった。今、日本に残った、「坂の上の雲」は、せいぜいサッカーぐらいなのだからこそ、優勝までチャレンジするに値がある。その意味で、ただよくやったでは、将来の日本サッカーの進歩はないだろう。

 私自身は今回の戦いは、日露戦争時の日本を思わずにはいられなかった。圧倒的に弱い国力で、いかに大国に勝利するか? それは今ある生きのいい駒を使うことと、情報戦(スカウティング)にかかっていた。

 そして大胆な発想である(これは今ひとつかけていた)。

1. 異形の集団

 フォアードがいない集団であったことを忘れてはならない。本田、松井、大久保(以前はフォアード)は中盤の選手だ。

 フォアードがいないサッカーというのは、実はフランスワールドカップで岡田監督が、「守るためのフォアード」というコンセプトを唱えた延長戦上にある。これは苦肉の策であり、是非、オーソドックスなサッカーチームになってもらいたい。

 日本は長らく、40年以上も(釜本以来)フォアードの不在に苦しんでいる。ファードの香りをしたのは、三浦カズゴン中山だが、それでも世界的なフォアードには遠かった。

 今回の楽しみはファード森本を見ることであったが、なぜか、たぶん、監督は本田とかぶると考えたのか、一度もプレイさせなかった。彼が次のブラジルで是非、活躍してもらいたいものだ。
 つまり、普通のチームいなってもらいたい。


2.執念のなさ、なぜバクチを打たなかったのか。

 ゲームの後半から、右サイドが、途中出場の相手の18番、ドルトムントにいるバルデスに圧倒されていた。駒野は負けて、松井はゲームから消えていた。
なぜ、もっと早く、守りのためのフォアード、岡崎を入れるとともに、攻撃のための中村(賢)と玉田を入れなかったのか?

 どうせバクチを打った大会。

 いっそ、バクチ打ちとして、3人同時に交代させてはどうだったであろうか。延長を視野に入れていたのだろうが、負けてもともとと考えればそのような大胆な発想と行動が相手の意表をつき、勝利につながった可能性のほうが敗北よりも大きい。

 97年、あのジョホールバルで、三浦カズゴン中山を同時に交代した、大胆さを思い出してもらいたかった。

 少なくともフォアードを要するパラグアイに総合力では負けていたのだから、日露戦争の日本――日本海海戦で、連合艦隊が常識では考えられない敵前回頭をしてバルチック艦隊を撃滅したように、大胆な発想で、勝利への執念を見せてほしかった。