いきもの力の喪失

 イタリアでは以前より国民投票の実施が決まっていたとはいえ、原発は廃止に向けて走り出した。ドイツしかり。
 事故を起こしたのはこの2カ国ではない。わが国日本である。
 経産省自民党、電気労連、原発誘致の町の中にはいまだ
原発を愛している!」
原発なくては生きられない!」
「もっともっと原発が欲しい!」
原発と結婚したい」
 とあの手この手で叫んでいる。
 彼らはあらゆる理屈を作り出す。
 陸続きのヨーロッパとは違う、電気料金があがる、国際競争力が落ちる。
 だから原発は将来も主要なエネルギー源。

 これら原発大好きを大合唱をする人々が目をつむっているのは、 
 日本の子どもたちの将来なんてどうでもいい
 回りの自治体の迷惑なんて知ったことじゃない
 農地も海もどうなろうが知ったことじゃない
 どうせ癌になるのは田舎もんだ(誘致する地元はそう思われている)
 どうせ白血病になるのは下請けの下請けの労働者だ

 というわけだ。ある意味、彼らは慾に目がくらんでいるのだから人間的ともいえる。

 けれども私がもっと危惧するのは、いきものとしての感覚や本能の喪失である。  

 私は、一時疎開するのが2日遅れてしまったと今も悔やんでいる。原発が爆発したら、危ない、即、遠くへ逃げる。それがあたりまえの行動である。
 3月17日の羽田空港はもっと込んでいると予想していたが、まったくすいていた。大阪でも京都でも、もちろん一時疎開の子供連れの夫婦もいたが、関東から避難している外国人が多かった。無論、彼らは異邦人なので、より身軽といえる。それでも、別の国ならば、数倍の人間が関東圏から避難したと推測される。

 ある週刊誌でも、取材記者が「爆発したので逃げましょう」といったのを、臆病だとか、卑怯とか馬鹿だとかパニックだとか揶揄していた。それは逆である。爆発しても落ち着いていた人間はいきもの力が磨滅し、危機意識が鈍感になっているに過ぎない。
 爆発したら、逃げる、それがあたりまえの行動なのである。

 たとえば、ベネズエラのチャべス大統領はすぐに怖くなり「原発の導入はしない」と決めた。

 日本人には生ものとしての感覚が薄れ、しかも伝統的な思考方法だが、都合のよい未来を描いている。
 1000年に一回の地震津波だから、二度とない、あるいは自分のところには来ないとたかをくくっているのだろう。
 だが1度あることは2度ある。同じ事象は案外続くものだ。
 今回の原発事故は、人為的なミスが災害の始まりだったスリーマイル島チェルノブイリとは異質なのだ。
 近いうちに同じ災害がどこかの町、村、県で起こることだろう。
 このままでは、日本民族は、周辺の人々に迷惑をかけながら、人類に先駆けて滅亡するしかない。