死を悼むとは

 死者1万5391人、行方不明者8171人
 短期間の死者数としては、大災害か戦争でしか起こらないものだ。
 その一人ひとりの死や行方不明者には、多くの血縁や知人がおり、それぞれ固有の悲しみがあるに違いない。だが、ぼくにはそれを感知できない。
 震災後、多くの人がお悔やみを被災者に向かって述べていたり、ブログや何かに書いていた。ぼくはどうしてもそのような行為ができない。見ず知らずの人の悲しみを簡単に共有することができない。

 死とはきわめて個人的なことであり、死者とその関係者のライフストーリーを知らなければ、心が掻き立てられない。

 ひるがえってこの国では自殺者が毎年3万人以上という異常な状況が12年も続いている。常体化してしまったので、この国では普通のことになってしまった。
 それらの人に対しては、誰もお悔やみをいわない。一挙に死ぬのではないし、視覚化できないからであろう。あるいは自殺は自己責任と考えているのかもしれない。
 いずれにしろ、死は個人的なことなのである。さらにこの国では死は隠ぺいされる。死を見ることは少なくなってしまった。
 だが、死を知らずして、生を知ることができるだろうか?
 ぼくがかって住んだアマゾンでは、幼児がよく死んでいた。棺桶を作らせるのがボランティアのひとつだった。ベネズエラでは、交通事故でよく友人が、友人の友人が死んだ。撃たれる友人、誘拐される友人も多かった。死の危険や死のにおいがそこらじゅうに漂っていた。
 そして、日本においても、ぼくの年齢になると、多くの友人や知人が様々な理由で死んでいる。40歳を超えて生きることだって、なかなか大変なことなのである。そこで、12年前に書いて、MSN ジャーナルに掲載していた、「親が子に伝えること」を復刻し、死の意味を再考してみたい。
 きっと死の意味の何かを感じてもらえると思うので、是非読んでいただけたらと願うのである。