被災地の10ヶ月後 仙台周辺

 絆という言葉が度々使われる。流行語でもある。
 災害は確かに血縁や友との縁を思い出させる。
 ぼくの従弟は仙台の宮城野区に住む。40数年あったことがない。年賀状だけは来るし、電話の付き合いはある。
 昨年の3.11後にすぐに安否を確かめた。数日後に家族全員が無事だったと確認がとれた。けれども蒲生地区である。彼の家の前の道路を隔てて、多くの家は流出し、近所でも多数の遺体があがっている。
 彼の家じたいも一階は浸水した。


 その後、彼は災害復旧(瓦礫処理や家の解体)などの仕事についている。
 仙台周辺の現地の状況はずっと聞いていて、早めに現地を訪れようと思っていたが、今になってしまった。
 宮城県は、仙台市宮城野区若林区、荒浜海水浴場、名取市閖上地区、石巻、福島の相馬を巡った。
 現状と新聞や週刊誌では伝えられないことを写真とともに略記してみる。
 写真は宮城野区から若林区にかけて、津波被害のままになっている家も散見された。
 「『家も流されて、近親者も亡くなり、自分の工場が流出して、農地ももうだめだ、どうすればいい』なんて相談される。みんな今になって一時の緊張感がとけて精神的におかしくなっているよ。相談されるほうもどうも答えようがない」
 

 大混乱の中でまるで、飢餓海峡を思い起こされる話しもある。
「あのヤクザの親分、死亡者欄に新聞にのってたけど、昨日、元気に歩いていたよ」。人それぞれの理由で、戸籍から抹消を望む人もいるのだ。
 写真は荒浜小学校。15mを超える津波がきた。「冬のさなかに老人も子供も屋上にいたんだから、まあ、寒いよな。役所の避難場所の指定がやっぱりおかしいんじゃないか」


「この若林区宮城野区のほうが死者は多いんだけど、芸能人とかマスコミは名取市閖上のほうになんだか知らないけどいくよ。おれの知人のおじさんは、被災してないけど、毎週演歌歌手がきて、普通に見れば何万円だっていって、毎週のように聴きにいっているよ」

「あと、おかしいのは消防署の人とか役人で命を亡くした人は、勲章みたいのもらえて補償もたくさんでるけど、民生委員とかそういうひとも他の人を救うのでずいぶん死んでいるだよ。でも、そういう人は役人ではないから特別にお金も出ない」



 

荒浜海水浴場の新しい慰霊碑。若林区宮城野区の海岸にはたくさんの団地もあったとのことだが、みな流出している。時々瓦礫の山が見える。瓦礫運搬のトラックだけが何台も何台も走っている。





 



荒浜。ここには数百人が打ち上げられた。10ヶ月後、波は静かだった。あと半世紀もたったとき、地域の人々を除いて記憶は受け継がれるのだろうか? たとえば上野公園の京成口付近には大きな穴があけられて、東京大空襲のときの遺体がトラックで集まられて埋められている。ぼくはそれに携わった人から聞いたことがある。










閖上中学校。公民館に逃げた人々が「ここよりもあちらのほうがいい」といわれ、無理やり、中学校へ避難させられた。車が渋滞し、多くの方がそのおかがげで亡くなった。公民館の3階に入っていれば助かったのである。このような人災? も多い。「車の教習所でも、逃げなくてだいじょうぶって、授業続けて、津波に飲み込まれたんだよ。今は裁判になっている」













閖上中学校の内部。まだ流入した泥がそのまま残っている。
公民館はどこなのか見つからなかった。「コンビニとか民家とか団地とかみんな流出して目印がないから、どこを走っているかわかないよ」








 仙台市内は一見、なんの被害もないように見える。

「マンションは一階だけ亀裂があったりして、住民でどこを直せばいいのかとか、すべて建て替えるかとか、なかなか話しあいがつかないよ」。

 仙台のアーケードは一部光ページェントがまだ実施中である。「これぐらいやらないと、精神的にまいっちゃうからな」と同行者はいう。ぼくが思い出したのは、20年前、破綻寸前で停電だらけのアルゼンチン、ブエノスアイレスのフロリダ通りだった。あそこも、煌びやかなネオンに彩られ、バスは夜中中走っていた。

 明日は石巻周辺の写真です。