被災地の10ヶ月後 相馬

 昼前に仙台から常磐線の電車で亘理まで行き、線路がまだ普通なのでそこから代行バスで、相馬まで足を延ばした。相馬から南へは放射能の影響で代行バスも出ていない。
 冬の浜通りの相馬は、海からの強風が募り、帽子が飛ばされてしまった。まるでパタゴニアのようだ。あそこでも帽子と紙幣が強風で50メートル近く飛ばされて、あわてておいかけたことがある。
 放射能がどのようにどこに運ばれたのか、なんとなく実感する。





 駅前も人影が少ない。カニ入りのラーメンを探した見たが、みつからない。強風にのってカンツオーネらしい音楽が聞こえてくる。いってみると強風に暖簾がまくれあがっているイタリアレストラン。こんなところに? 中をのぞくと家族連れがちょうど出てくるところだった。
 入ってみると、かまどがあり、なにか本格的なイタリアンである。ここでパスタのランチ(500円 コーヒー別100円)を食べたが、きちんした味なのだ。びっくりしてしまった。

  食後、松川浦の漁港まで往復16、7キロを冷たい強風に煽られながら歩いた。38号線である。40分ぐらい歩くと、民芸品の看板があるので、その民芸品の店を訪れてみた。
 写真は氷の張った水桶。民芸品の展示室の横にあった。
 民芸品私設博物館で、70代だろう農家のじっちゃんが集めたものである。がらくたが多いがメインはキセル


キセルのほうは売り物じゃないよ。あっちの展示室にはいってもいいよ」
 がらくた置き場から展示室にはいると、ガラスケースの中に50以上だろう江戸時代からのキセルが展示されている。ぼくにはほとんどどれも同じに見えるが、たぶん由緒あるものなのだろう。
「よく集めましたね」
「半世紀かかっているからな」
 不思議だ。何に魅せられて、他人には同じようなキセルをこれほど集めたのだろうか? 家族はどう思っているのだろうか? いろんな人がいるものだ。



 松川浦は湾が内陸に大きくいりこんでいるので、津波の被害は他の地域より小さくてすんだようである。ただし海岸縁の電信柱は斜めになったままだったし、流出して土台だけの家も散見された。
 釣り客を当て込んだ旅館が多い。また、かつては魚介類の直売所もあった。津波で流出したか、放射能で営業停止である。

漁港には漁船がきれいに並んでいるが、出航はできない。「相馬の漁業者が仙台の建築労働にたくさんきているよ。放射能で仕事にならないのさ」
 相馬は、カレイなどの高級底魚を東京にも出荷していたはずだ。だから、相馬市などの生活水準は高かったときく。本格的なイタリアンがあるくらいだ。



 船が漁業関連施設にめりこんだままだった。
 操業のあてはないのだから、漁港を修復する気にもならないのだろう。むしろ、この場は後世にそのまま残したほうがいいのではないだろうか。ぼくは1960年のチリ津波の爪痕を、30年後に目撃した。バルディビアの川だと思うが、船がまっさかさまに船首から川底へ、突き刺さったままだった。
 さて、地震国のチリは国是で原発は作らない決定を何十年も前に行っている。

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