シャルリ・エブド襲撃事件の現場を訪れる(1)

 「ぼくはシャルリだ」とか「I am Kenjiだ」とかとてもいえない。いえるとしてもまったく違う意味である。

 パリでのテロの犯人も犠牲者もイスラム国で殺害された日本人人質と同様に、イスラム国とともに、彼らが属する国家、あるいはその政権へ捧げられた貢物なのである。相反するように見える両者は互いに利益を得、そして偶然か必然か漁夫の利を得たのは、イスラエルネタニヤフ首相であった。

シャルリ・エブド事務所の今
 その日、2月25日、ぼくはパリのテロの現場を発生時と同じ午前11時過ぎに訪れた。ホテルは車道と遊歩道を隔てて、現場までの距離は30メートルもなかった。たまたま著名なシェフが作った宿だった。

 場所はバスチューユ広場から400メートルほどの距離。東京でいえば渋谷から代官山へ至る地域か。閑静な住宅街で、犬を連れて散歩している中年の女性や男性を何度か見かけた。どちらかというと、出自をイスラムに持つ1世、2世、3世はあまり居住していないだろう。彼らの多くは郊外に住み、そこはフランスではテロ、犯罪の温床とされ、移民地区あるいは郊外問題などと称され、貧困を囲い込み、警官が多く動員されている。





 シャルリ・エブドが入っているビルとその向かいのビルは、花束が山のように積み上げられ、フランスの三色旗も雨に萎れて半ば埋もれていた。ビルの壁には、寄せ書きやシャルリ・エブド紙がかつて掲載した風刺画が壁に貼られている。「私はシャルリ」「私たちは差別主義者ではない。自由の民、それが条件」などなど。中には場違いと思われる、こんなときの紋切型のチェ・ゲバラの肖像まである。

 ビルを越えて直進すると、住宅が道を遮る行き止まりで、ビルの右側の道路だけが、車道への抜け道となっている。逃げ場がない。犯行は早急に行う必要があったわけだ。自爆テロではないのだから、万が一にも逃げることができる可能性を考えていたに違いない。

自己確認を求めて
 実行犯とされるクアシ兄弟(30代)は、パリ北東部10区でアルジェリア移民の家庭に生まれ、幼い頃に両親と死別し、仏西部レンヌの孤児院で育ったという。最近は、移民が多く住む北東部19区で暮らしていたようだ。弟のほうは、ピザ配達の職についているが、かつてラッパーでもあったのだから、その道で成功しなかったのは確かだろう。
 
 ここで唐突に思い出すのは、2008年の秋葉原の無差別殺人である。自動車工場派遣社員の加藤智大が2トントラックで人を撥ね、かつサバイバルナイフで通行人や警察官を殺傷した。

 加藤は派遣社員として、暗い穴倉のような日常の中、自身が認知されない人生に病んでいたが、派遣切りもあって、人生の出口を見つけることはできずに、その報われないはけ口の攻撃対象は無差別となった。(その後、秋葉原の現場は犠牲者を悼む花束に覆われることになる。)

 一方、クアシ兄弟に郊外問題といわれる地域で、何かしらフランスの中心文化から疎外され、望むべく人生には到達できないという予感を20代半ば頃には、得ていたのだろう。そして、あるときから急に出自のイスラム教に関心を持ち、アメリカのテロ戦争への反感などから、人生の出口として、死を賭してテロ行為に出たと想像される。その意味では、過激な宗教にアイデンティティを投影した、あまりに陳腐で典型的な事例だ。
(それにしても、子供の頃、二人はどんな夢をもっていたのだろうか? 「21世紀の資本」で格差を糾弾し、一世を風靡しているトマ・ピケティがフランス人なのは、偶然ではないだろう。)

シャルリ・エブドはハラキリだった
 さて、被害者側の新聞、シャルリ・エブドは、その前身は、1960年に発刊された左派系の『Hara-Kiri』で、確かドゴールを愚弄したことで、翌年早々に発禁。復刊したのは1966年だが再度1981年に廃刊。92年にシャルリ―・エブドとして再開されたが、その後も資金不足、販売不振から何度も廃刊危機にあったようだ。ネットの盛況から、最近は一層、経営難だったのではないかと想像される。

 そのような新聞社や雑誌社は、生存のために少量の毒を飲み、それが世間の一部から認知されれば、大量の毒を飲み続けることになる。それ以外生きる術がなくなる罠の中に自ら嵌ってしまうのだ。その毒とは、イスラム愚弄―日本でいえば、嫌韓や嫌中ということになる。シャルリー・エブドはその読者とともに、フランスのイスラマフォビア(イスラム恐怖症)を増幅させていく。(それと同じく、ヨーロッパでは古い反ユダヤ感情も高まっていったのである)。

 けれども編集者たちは自身が差別主義者であるとは微塵も思っていなかったに違いない。もともと権威に対する嘲笑、愚弄の新聞であり、フランス特有のライシテ(世俗主義政教分離)から程遠く、信者たちと彼らが作る社会に対して権力を維持するイスラムは恰好の攻撃目標であり、しかも彼らの一部はテロを繰り返しているのである。

 このテロで思い返すのは、1960年末に『中央公論』に発表した深沢七郎の『風流夢譚』が呼び起こした右翼テロであろう。天皇を侮蔑したような内容の小説は右翼の怒りを呼び、中央公論社社長嶋中鵬二(しまなか ほうじ)宅が襲撃され、家政婦が刺殺され、妻も重傷を負った。深沢は右翼から逃れるために数年全国を放浪する。

 中央公論は社告で「言論の自由」を呼びかけるたものの、『風流夢譚』を掲載に不適当な作品であったと反省して皇室と一般読者に詫びたのである。竹森前編集長は退社、編集者たちも変わった。中央公論はその後、読売に買われたあとも、いまだ社長につく人間によっては、その大昔の事件を回想し、読者の反応に過剰反応をしている。

 一方、シャルリ―・エブドの編集長シャルブ(根っからの共産主義者)は、ハラキリの伝統を引き継ぎ、火炎瓶を投げ込まれようが、アルカイダの殺人リストに載ろうが、「跪いて生きるか立って死ぬならば、立って死ぬほうを選ぶ」(もっとも、私には妻も子供もいないからという留保つきだが)として、批判や脅しなどに屈せずに、イスラムを愚弄し続けた。
 
 マスコミ魂という意味では、見上げたものである。日本の嫌韓、嫌中の新聞社の編集長はその覚悟があるのだろうかと問いかけたくなる。けれどもシャルブは、想像だが、自殺願望か、殺害されるのを予見、望んでいたのではないかとさえ思えてくる。彼は、2014年12月31日号(事件の前の週の号)には、「フランスではいまだに襲撃が全くない」という見出しの下で、ジハディスト戦士を、「慌てるな!新年のあいさつだったら1月末まで間に合うぞ」と言っている風刺画を掲載している。

 シャルブ編集長は、編集方針に賛同していた、あるいはただたんに仕事が欲しかった漫画家や編集者、校正者など11名を死の淵へと引き連れて行ってしまったっことになる。

謎の死体
 さて、ことはこれだけで終われば単純だっただろう。襲撃のあった、翌未明、担当警察の幹部エルリク・フレドが自殺したと報じられたのである。

 エルリク・フレドは2012年からクアシ兄弟が高校時代を過ごしたリモージュ地域の警察の副長官であり、フランス当局と二人の兄弟の関係を証言しうる、諜報活動を担った幹部の一人だった。彼は、すぐさま警察官のチームを急遽派遣し、シャルリ・エブドの犠牲者の一人の親戚に聞き込みを行い、その内容を含めて、事件のあらましについて、夜遅くまで署内で報告書を作成していたのである。木曜日の午前1時に彼は死体で発見されたが、彼が書いていた報告書は見つからなかった。(『現代思想』3月臨時増刊号、「パリの策謀」(ホレイス・キャンベル)参照)

 何やら2002年10月に発生した、民主党所属の衆議院議員石井紘基が殺害された事件を思い起こさせる。(自宅を出た石井議員は何者かに刺殺され、そのときもっていた書類は喪失した。金融国会に関する与党を揺るがす事実を彼は握っており、首相秘書に会う予定だった。さらに彼は金融国会での第一質問者となっていた)。

 そして、石井殺害で、利益を得るアクターは、今回のテロ事件となぜか瓜二つなのである(続く)。