新自由主義の終焉はアマゾンの小村で30年前に予言されていた

掲載レポートの原文です。原文と掲載文の相違を読み解くと、どこが削除されているのかがわかって
面白いですよ。

 南米の小国ボリビア1984〜5年当時、度重なる政変と直近の社会主義的政策の破たんもあって、2万パーセントを超えるハイパーインフレだった。アメリカ主導の世銀・IMF新自由主義を導入し、インフレ退治に成功したかに見えたが… 新自由主義は、ボリビア、日本そして世界に何をもたらしたのだろうか?

新自由主義の実験


 1986年初頭、ボリビアのアマゾン最南端の熱帯雨林の人口1000人に満たない小村のチョチスに赴任した。大成建設が請け負う水害で破壊された鉄道の復旧工事、援助の現場だった。
ハイパーインフレの余韻が残る村には一軒しか店がなかった。サッカーシューズを購入するために、ホチキスで留めた旧紙幣の分厚い札束をふたつ持って買いに行った記憶がある。また、期末になると、労働者が新規に導入された消費税の還付のために総務部会計課を訪れるようになった。
世銀・IMFの構造調整プログラムは、消費税(日本は89年に導入)、百万分の一のデノミ(通貨切り下げで百万ペソを一ボリビアノスとした)、緊縮財政、民営化、価格統制の撤廃、金利自由化、均一関税の採用と非関税障壁の撤廃などの実施を迫るものだった。それらはインフレを退治し、マクロ経済を安定させた成功事例に見えた。だから、新自由主義はその後中南米と世界中に一層広まることになる。
けれども、同プログラムをたった2週ほどで作り上げたというハーバード大学出身の、当時30歳前半だった経済学者ジェフリー・サックスは今更ながら、「あの改革や政策は失敗だった。国内のことを知らずにやってしまった」と回顧している。
ボリビア国民にはいい迷惑であろう。

バブルと格差―アマゾンと日本
 痛みを伴う構造調整のおかげで国としては不況になったが、アマゾンの小村にはバブルがもたらされた。
アマゾン流域の最果ての小村に、日本人、ブラジル人(橋梁建設はブラジルの会社)、ボリビアの各地の技術者が集まり、最盛期は村人も含め工事に携る人間は350人を越えた。ユカイモを主食とする自給自足経済のような村に、突如貨幣経済が入りこんだのである。

 ディスコが一軒から二軒になり、酒場が一軒、二軒、三軒と開かれ、テレビ(村に一台しかなかった)でビデオを上映する店もでき、しまいには村のはずれに売春宿まで開店した。コカインを売りに来る売人さえ現れた。
一方、当時、地球の裏側の日本は国をあげてバブル経済の只中にいた。金余りは土地本位制の様相を呈し、日経平均は4万円を目指していた。ところが、1991年にはバブル崩壊。長い不況と金融不安が日本を覆うことになる。
歴史の必然の符号(世界中の構造改革にはハーバード大学関係者が度々関与している)であろうが、ボリビアから15年遅れてで、「聖域なき構造改革」の名の元、小泉政権下、新自由主義を推し進めたのが、ハーバード大学に留学した経験のあるジェフリー・サックスの友人の経済財政政策担当大臣、金融担当大臣竹中平蔵氏(2001年〜5年)であった。明らかに大臣はトリクルダウンー富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するーの信者であるかのように見えた。
 けれども、不思議なことに、大臣の功績と思える政策は規制と政府の介入であった。資産査定を厳格化し、不良債権に苦しむ銀行に公的資金を注入、金融を安定化させたのである。自由主義とは相反する。
格差を産んだ金持ち減税についていうと、すでに99年の小渕政権に始まっていた。累進課税最高税率が37%(88年までは60%)、法人税率30%(84年は43.3%)に引き下げられた。そして2003年には相続税最高税率が50%(その前は70%)となった。これらの金持ち減税は格差を産む以外に、国の実態経済にどれぐらい効果があったのだろうか?
 途上国においても、極端な例をいうと、金持ちは自家用飛行機を持ち、アメリカやヨーロッパに行き、そこで買い物をする。先進国では、一部高額商品が売れたとしても、余分な金は貯蓄や金融資産形成に使われる。

 一方、小泉内閣下で将来の日本にとって最大の禍根となったのは、2004年の派遣労働の大幅な規制緩和である。
 すなわち、正社員になれないため結婚もできない貧者の若者が増え、国内市場は縮小、内需に頼ることはできずに、円安と賃金抑制による輸出型経済となってしまった。経済の専門家は認めたくない人間もいるようだが、少子化の最大の元凶は、教育費の高さとともに、労働者派遣法である。国内市場が活性化しない最大の理由である。経済活動はできるだけ自由がいいが、ただし労働、医療、教育、基礎インフラ(とくに途上国)を自由化すると、国民の多くは不幸になる。
 もっとも他者を非難するのは簡単である。筆者は、帰国後、投資や援助関係のレポートに何の疑いもなく、「民営化」「経済の自由化」「規制の撤廃」などを金科玉条のごとく書いていた覚えがある。
92年ソ連の崩壊を見た西側諸国は勝利に沸きかえり、なんでも自由がよいというハイエクフリードマンが持て囃された潮流の只中で自らを失っていたのである。

おまえたちのおかげで貧乏になった!

 アマゾンの小村チョチスでも2年半ほどの工事の終了とともにバブルの宴は終了した。村の未熟練労働者も解雇され、街から来た技術者もブラジル人も日本人も各々の場所へと帰り始めた。
村では酒場やディスコや肉屋の経営者だけがチャンスを物にし富を蓄え、他の村人たちは格差ができたことにはっと気付き、とりわ、妻たちが、日本人がいるうちにさまざまなものをおねだりし始めた。材木、鉄材、スレート、文房具にいたるまで。発電機などは力づくで奪われてしまった。
 筆者がボリビアを去り、数か月したあとのことだ。鉄道局のボリビア人と日本人の工事関係者が鉄道のメインテナンスの視察のために村を訪れた。そのとき、「おまえたちのおかげで貧乏になった!」と石を投げられたという。
 貧困や裕福というのは、周りとの比較の問題でしかない。貨幣経済がない場所に貨幣が入ると、その変化は顕著である。日本の援助レポートでは枕詞のように、何の思慮もなく「この地域はいまだ自給自足経済の中に留まっており」などと記載されていた。自給自足ができるのは素晴らしいことではないか。
 一度、貨幣に頼るようになった村人たちは、もちろん全員ではないが、貧しくなったのはこの援助プロジェクトの、日本人や都市の人間のせいだと考えたのは、むべなることだった。鉄道はでき、それは活用されている。援助の目的は十分果たされたのだ。けれども当時の村人の多くは、自分はプロジェクトに捧げられた供物であり被害者だという感情を抱いたのである。

新自由主義がもたらしたもの
 社会の変革時、ほんの一握りの人間が千載一遇のチャンスをものにする。日本でも同じだった。バブル崩壊後、リストラされた労働者は転職、起業した。あるいは派遣労働に就いて不安定な生活を送った。自殺者数も第二大戦後の近代の戦争の死者以上に多く、1998年〜2011年まで年間3万人を越え、14年間で中堅都市の人口が消失したことになる。このうちの30%前後は、経済的理由によるものといわれる。こうして中間層が没落していった。チャンスをものにしなかった人間は「自己責任、馬鹿者」とされ、忘れ去られた。それはアメリカやヨーロッパの一部の国でも起こったことだろう。途上国型の社会が形成されたのである。
さて、ボリビアでは、30年前の構造調整政策で、最も影響を受けたのは、鉱山公社(COMIBOL)の労働者だった。2万人以上が余剰労働者として解雇された。それに対する激しい抗議運動がラパス他の高地で起こり、政府は戦車を繰り出し、武力で押えつけた。社会主義革命の旗手であった大統領(3度目)のビクトル・パス・エステンソーロは君子豹変するとばかりに、30年以上も前に自分が作った労働組合潰しにやっきになった。死者も出た。たびたび戒厳令も敷かれ、夜間外出が禁じられた。
 その後、格差が一層大きくなったボリビアでは、コチャバンバ地方での水道事業の民営化・外資への販売、天然ガスの輸出とその国有化などを巡り、大きな政治的騒乱があった。
一方、解雇された鉱山労働者やその他の貧民の一部は、チャパレ地域へ移住し、コカを栽培するようになった。そのような家庭から2006年に出てきたのが、アイマラ族出身のコカ生産組合の組合長、現在の大統領エボ・モラレスである(注:コカとコカインは別。コカ葉はインカ時代にも住民に配給されていた)。
今後、世界は行き過ぎた自由主義を改め、格差や社会のゆがみの是正の時代に入っていくのだろうか? 筆者は、その手掛かりを見つけるために、20数年ぶりにアマゾンの小村を訪れることにした。