レバノンのメイドカフェと日本人人質 安田純平氏 (1)

ヌスラ戦線に拘束され、生死不明の安田純平氏の写真が掲載されてから、1年がたつ。
 ヌスラ戦線などのテロリストに拘束された他国の人間はよく解放されているのに、なぜ日本人だけ解放されないのだろうか? 
不思議だった。そこでシリア大使館も兼ねているベイルート日本大使館を訪れてみた。

アラビア語は必須か
 以前ある夕刊誌のコラムにあれこれ書いていた2003年にイラク戦争が勃発し、デスクに「戦争取材にいかないか」と打診された。私はすぐに断った。
「サウジのイスラム開発銀行の仕事をしたときは英語でことがすんだけど、戦争はそうはいかない。それにコーランを読んだこともないし」
 すると、「いや、隣のヨルダンで英語の新聞を翻訳していればいい」との答えが戻ってきた。けれども、そのような取材は面白みもないし、浅い記事しか書けまい。
戦場カメラマンのように、視覚に訴えるのなら言語ができなくてもまだ影響は少ないが、私の書きたいのは、戦争の背景であり、急転する歴史に潜む謎や諜報である。

 あれから10数年たち、中近東に駐在したり、その地域の知人ができ、騒乱や戦争の原因は宗教ではなく、宗教の相違は偽装原因あるいは結果であると考えるようになった。
むしろ、中近東は敵の敵は味方で、その味方もいつでも敵になるという人類の普遍的な原理に支配されている。戦国時代を知る日本人には分かりやすい。近いところでは
第2次世界大戦で米中ソは味方であったことを思い起こすとよい。

 だからコーランの知識はあったほうがいいが必須ではない。しかも今回はシリアやレバノンでは、英語を話すシリアの信頼できる人間が手伝ってくれそうだった。
私が覚えた最低限のアラビア語は3つだけだ。サラーマレコン=あなたに平和あれ、シュクラン=ありがとう、アラーユサイドゥ!=神様助けて!
 アラビア文字を覚える余裕はなかった。

パリよりもベイルートのほうが安全
 駐在地だったベネズエラからパリに着くとシャルル・ド・ゴール空港は混乱の只中にあった。空港の外に出ようとすると、マシンガンを持つ兵士が「あっちへ行け!」命じて来る。
空を飛んでいるうちにニースでテロが起こったのだ。空港で乗客の荷物が一つ行方不明となり、爆弾では? との疑いから出口が一時封鎖された。
 これなら、フランスパリよりもレバノンベイルートのほうが安全ではないか? 機内でレバノン行きの乗り継ぎ便のテロップが流れていたのを思い出す。
そのときは、レバノンに行け! という天啓だと思った。

 パリ滞在中に本屋数軒を回ってレバノンのガイドブックを探すが、どこにも見当たらない。かつての宗主国の首都の人間もテロや戦争を怖れレバノンは不人気な場所になっていた。
 けれども隣国のシリアが戦争中だからといって、レバノンが危険だということではない。朝鮮戦争のとき、日本は概ね平和だった。事実上内戦中のベネズエラの隣国のコロンビアは
今は治安がとってもよい。












 入国にビザが不必要であることだけを確認して、エールフランスとの共同運航便ミドル・イースト航空AF5104便にのった。
隣の席はアメリカの市民権を持つイスラム教徒シリア人5人家族で、ダマスカスの親戚の家へ里帰りだという。
 シリアもダマスカスは今は安全なのだ。

 初めての国なので少し不安だったが、到着翌日からベイルートの街を歩き回ると、東京の繁華街と変わるところはない。しかも日曜の夜はまるでブラジルだ。
ホテルの前の街路は歩行者天国となって、バンドがロックやブラジル音楽やらを演奏し、人々はビールやワインを飲んで踊っている。もちろん内戦の爪痕は所々あるが、それは遠い昔。
レバノンにこそ平和の配当がある。
 ある意味異質のものがなく、面白みにかける。その中で私が唯一驚いたのは、海岸通りの突端から市内側へと折れた坂道で見つけた巨大な看板だ。
「あっ! メイドカフェがある!」 続く