美女は心を洗い流すニャン

 三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、
御三の険突(けんつく)を食って気分が勝(すぐ)れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。
すると、いつの間にか心が清々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。
女性の影響というものは実に莫大なものだ。杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから
首輪の新しいのをして行儀よく縁側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。
曲線の美を尽している。尻尾の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。
ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、
天鵞毛(びろうど)を欺く(あざむく)ほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。

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 吾輩は床屋の店先でミケを見た時、三毛子の生まれ変わりニャンと思った。ふくよかな体つき、雪の中に黄金をまぶしたような毛色。
虎を思わせる高貴な目つき、背筋をのばすときの優雅な物腰。ほんのりと漂ってくる麗しいリンダンの香り。うっとりとして店の前に佇む
ミケを見ていると、向うから話かけてきたニャン。

「あなた、失礼ね、じっと見て、どこの猫よ」
「吾輩は散歩にきたんニャン。大学教授の家に住んでいる」
 野良猫とは気恥ずかしくて言えなかった。

「そう、じゃあ、あなた先生ね。あれ、どうしたの? 鼻の周りがうっすらと赤いわよ。いやねえ、変な病気じゃないの」
 吾輩は舐めに舐めて鼻の湿疹は治ったと思っていたのに、完治していなかったのだ。とっさに機転を利かせて、また嘘をついた。

「さっき、ドブネズミを追っていたら、草藪で、蚊に食われちまって」
「へー、先生、勇ましいのね。公園には不良猫、オカマ猫、悪い病気の猫がいるから、近づかないほうがいいわよ」

 吾輩は先生と呼ばれて天にも昇る気分。恍惚と幸せニャン。尻尾が自然とぴんと立った。
「あら、先生、素敵な」
 そういいかけたとき、ちょび髭を生やした飼い主の床屋が現れた。
「こら、泥棒猫、あっちいけ!」
 銀色の長い挟みをちょきちょきやって威嚇するではないか。吾輩はいちもくさんに逃げながら、
「ああ、うっかり二つも嘘ついた、どうしよう」と後悔した。

見栄を張るのはよくないニャン。
(イラスト BY Sagar Jhiroh)