今日、ホームレスに戻ることにした

 一〇時を過ぎた。おれはリックのなかから付箋を取り出し、そこに「奥さんは約束の場所でずっと待っているそうです。つけられないように、いつでもいいから来てください」と書いた。そして財布の中を見た。硬貨ばかりで一〇〇〇円ちょっとしかない。
「じゃあ、五〇〇円だけ置いていきますよ。ぼくは渋谷のほうに取材で行くかもしれないし。どこで眠るかきめなきゃいけない」
「寝るなら、噴水のそばの芝生のほうがいいわよ。男のひとならそんなふうにして寝てもだいじょうぶ」
 空は以前曇天だが、雨は落ちてこない。
「うちの人に、財布の入っているバックを持ってきてって言っておいて。それからくれぐれもつけられないようにね。なにかあったら原宿署に電話して」  
 おれは覚悟を決めて立ち上がった。
今度は大通りを歩いた。できるだけゆっくりと。途中でだんなの橋本さんと鉢合わせすることを願って、憂鬱な気持ちで歩く。

 おれの選択は間違っていたのだ。
 こんなことなら、家族といっしょに友人のところに行けばよかった。稲村を探しに渋谷へ行くべきだった。大の大人が牛乳一杯で歓んで。だからいつまでたってもうだつの上がらない準ホームレスなのだ。
おれは歩いているうちに自己嫌悪の塊になってしまった。
 足が重い。だが惰性で前へ進む。明治通りを右に折れて、竹下通りに入った。昼間は若者で賑わっていたが、お盆の夜なのでひっそりとしている。
 生憎小雨が落ちて来て、剥き出しの腕を濡らした。おれはナップサックから元バーテンのホームレスにもらった折り畳み傘を取り出した。開いてみると、二本ハリが折れていて頭にビニールの部分が落ちて来てしまう。なんともしまらない。
傘を閉じ、それは別の用途に使うことにした。そして原宿駅前のコンビニで安い懐中電灯とライターを所望したが両方とも販売していなかった。しかたなく、そばの薬屋でライターを購入した。
 おれは原宿の駅を超えた。
 すでに元電電公社に勤めていたというおじさんはテントの中で血塗れになっているかもしれない。
 上野公園でも胸を刺されて殺されたホームレスが発見されたことがある。犯人はわからずじまい。ホームレスと準ホームレスの無名の物書きの殺害では、夕刊の社会面に三行ほどの記事が出て終わりだろう。怯えている奥さんの渡辺さんはその記事を見てどこかに姿をくらますに違いない。
 何か理不尽だ。
 おじさんは内縁の妻とともに公園で誰の世話にもならずに慎ましく暮らしてきた。なぜそんな人が同じホームレスに公園を追われなければならないのか? 
おれは代々木公園に近づくにつれ、神経がぴりぴりと緊張し、頭のなかで突然緊迫した文体が生みだされていった。美は乱調にありと誰かがいったが、いままでと違う文章になてしまうが読者の方は我慢してもらいたい。なにせ、おれは鉄パイプに対して襤褸傘で闘うつもりなのだから。すなわち――
 ホームレスの世界とは、生存をかけた剥き出しの競争社会であり、ややもするとホームレスの中の弱者は、仮の棲家からも排除されてしまう。そして、もし、そうだとするならば、それは子供の世界が親の世界の反映であるのと同じように日本社会の現実を写しているにすぎない。
 会社で、学校で、あらゆる組織で、正論を吐く人間、異質な人間、弱い人間は排除されているのではないか? 現代は悪貨が良貨を排除するような社会になっているのではないか? そして最後には力がものをいう世界なのではないか? 
 おれはここ数年、できるだけ冷徹な目でホームレスの人々の世界を見てきた。だが今は奇妙な感覚に囚われている。
冷徹な目で見られていたのはおれのほうではなかったのか?
 われわれとわれわれの属する社会こそが、ホームレスの人々の存在に、鋭い問いをつきつけられているのではないか?
「あなたは今、それで幸せか? そして、今の社会のありようはこのままでいいのか?
 と――
 おれの頭の中では、こんな真面目な思索が紡がれていた。追い詰められたときこそ、人間の正体や真実が露わになるというから、きっとおれは立派な人間なのだ、とおれは今になって感心している。

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★しばらくの間、日本社会を離れます。一時ネットが通じなくなるので、少しブログは休憩するかもしれません。
★「今日、ホームレスに戻ることにした」、2月末に発刊です。ご興味のある方は、書籍で続きをお読みいただけると幸いです。
★「愛! フクシマの黙示録」は引き続き、電子書籍で連載しています。第13巻で終了となります。
★では、みなさん、お元気で。地震原発に十分ご注意ください。