ルーブル美術館と食と同時多発テロ(2)

 パリは朝の8時を過ぎても薄暗い。北緯48度と北海道よりも地球の上にあるせいだ。店もほとんどすべてしまっている。まるでオルランド大統領のいうように戦争前夜のようだ。先日日本で見た映画 ブリッジ・オブ・スパイを思わせる。映画は冷戦開始の時期を舞台にしているが、今の時代はむしろ第一次世界大戦前夜と酷似しているところがある。

 氷雨の中、ホテルを出る。パリ10区、テロの標的となったle petit cambodgeまで路地を歩いて5分の距離。味、価格ともにリーゾナブルな人気レストランだったようだ。報道では、にぎやかな繁華街とあったように思うが、とてもそうとは思われない。東京でいえば、新中野の路地の奥にある人気ラーメン屋という雰囲気である。夜にも足を向けてみたが、テロの影響もあるのだろうが、周囲は暗く人通りも少ない。レストランの階上はアパートである。
 なぜ、こんな店を標的に選んだのだろうか? フランスの植民地主義と関係あるというのだろうか? 人気とはいえ、この店は一見さんが訪れるような店ではない。テロリストたちは、この店の客だったか、彼らに命令したものがこの店を熟知していたに違いない。ここで犠牲になったのは、11人といわれている。







 その後、地下鉄の駅をさがして、レピュブリック広場まで出てみた。ここは昨年、シャルリー・エブド本社へのテロ事件に抗議するために、大集会が開かれ、160万人が行進した起点である。有名なタンプル大通りが広場につながっている。19世紀中ごろ、ここは犯罪大通りといわれ、夥しい劇場があった。往年の映画フアンならば、見たことがあるだろうDマルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』の舞台でもある。(このへんの歴史については写真家の三上功さんのサイトが短くまとめてくれている)。
 この女性像マリアンヌとこの広場こそが共和国フランスの美しい標語を象徴している。自由、平等、友愛ーけれどもぼくのようなひねくれものは、シェークスピアマクベスに出てくる魔女の「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という言葉を吐き出したくなる。フランス革命明治維新同様に、いやそれ以上に夥しい血で塗られている。






 

 そして、もうひとつフランス革命で忘れてはならないのは、世俗ライシテである。資産を所有し、権力を持つカトリック教会は徹底的に弾圧した。宗教は冒涜の対象であり、カトリックがそうならば、イスラムも同様なのである。例外は、フランス自身も手に染めたユダヤ人のホロコーストへの罪の意識か、それとも金融やジューナリズムの影響の大きさからか、あるいはモサドが怖いからか、ユダヤ教だけは批判の対象外となっている。








 今、このマリアンヌの像の土台には、テロリストの犠牲となった人々の名前が張られ、フランス国旗と犠牲になった国の国旗、そして「わたしはシャルリー」「イラク、シリアの死者200万人にわれわれは責任がある」などの標語が張られ、花々が生けられ、蝋燭がともされている。凍える寒さだし、像を訪れる人早朝の出勤時間なので、ほとんどいない。若くし亡くなった女性の写真もある。悲しい場所だ。

 地下鉄にのり、パリ11区のシャルリー・エブド社のあったビルを訪れる。彼らは明確にイスラムの敵だったのだから、標的になるのはわけがある。


 その足でバタクラン劇場まで歩く。10分ほどの距離だ。地下鉄と歩きでテロ現場を迷いながら訪れたが、たった2時間半しかかからなかった。劇場の持ち主はユダヤ人と聞いている。ところが、ネットで調べてみると、昨年2015年の9月11日に売り払ったという。9.11そして13日の金曜の同時テロ、あまりにふざけて、大胆な符号にガセネタと思っていたが、jewish-owners-recently-sold-pariss-batclan-theater-where-is-killed-dozensというタイトルのThe Time of Israel のテロの翌日11月14日付け記事がそれを裏打ちしていた。
 シャルリー・エブド社へのテロリズムのときと同様な嫌な臭いがぷんぷんとしてきた。
 そんな思いを抱えてルーブル美術館を訪れ、律儀にも3時間も館内を巡り、美術館を出ると、思いがけないげ煌びやかな迷路がぼくを幻滅と混乱の只中に陥れた。(続く)