炎上死した新潮45と劣化するマスコミと社会の行きつく先(2)

 少なくとも次の号を出すべきだったのではないか
 それにしても新潮45がこんな簡単に白旗を上げるとは意外だった。少なくとも、次号で編集長自らが、なぜこのような特集を組んだのか、
なぜそうせざるをえなかったのかを書いて、それを最終号にしてもらいたかった。雑誌が抱える問題を世間に訴えるきっかけにもなったし、連載を持っていたり、
すでに企画が通って原稿に手をつけていた書き手や担当編集者に対する配慮でもある。

 この炎上死により、新潮社は、最終号に掲載されたレポートの書き手を2重の意味で棄損してしまったのである。
経営者側は、いつ廃刊にするかチャンスを待っていていい機会だ、と思ったに違いない。

 それにしても、安倍首相の周囲に群がるマスコミ人や執筆者はろくなものがいない。小川栄太郎は安倍よいしょ本でデビューし、
組織買によりベストセラーとなっているような著者であるという。類は類を呼ぶとまで言いたくないが、いかんともしがたい。

子供たちに顔向けできるのか
 今回の新潮45炎上死を見て、雑誌の編集長、編集者は寒からぬ思いをしたものも少なくないだろう。
私が雑誌や新聞に書くようになったのは、2001年頃からだった。そのころはまだ日本は左寄りだったのでないか。私はむしろ国家を忘れた日本人の咎について書いていた。

 ところが、あっという間に世間は驚くほど右寄りになった。バブルの崩壊と韓国や中国の勃興が影響しているのだろう。マスコミは商売右翼として、乗じるようになった。
一杯の毒は、2杯、3杯と増えて行った。編集者たちはそのうち毒を煽り過ぎて、以前は信じてもいなかった毒の中の現実を本物と錯覚し始めたに違いない。
 現実を見失って行くコカイン中毒者のようなものである。

 世間が右ならばそれを越えなくては本は売れない。ヘイト、少数者叩き、韓国、中国への侮蔑、それにより酒場で溜飲が下がる者も多いのだろう。
危険な兆候だ。ナチスゲッベルスデマゴーグを思い出す。中身のないデマにドイツ国民は熱狂したのである。

 新潮45の炎上死を他山の石として、数少なくなった総合誌の編集長、編集者、加えて書籍の編集者もデマに加担し、社会をいっそう劣化させるのは、もうやめたほうがいい。
 歴史は必ずはデマゴーグの跋扈に加担するあなたたちを裁断するときがくる。そんなとき、あなたたちは子供や孫に顔向けすることができるのか!

 合掌! 新潮45

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炎上死した新潮45と劣化するマスコミと社会の行きつく先(1)

 
新潮45が炎上死してしまった。
 私の書斎には編集部から送られてきた掲載誌が11冊以上ある。いつから書いたのかを調べて見ると、2006年の12月号だ。
見開きを見ると、そのときの特集記事は「狂宴! エロセレブ」13の怪事件簿。筆者の多くは女性フリーライター。その隣が私の「ここで終わりやで」母子道行き心中、そして佐藤優さんの「北朝鮮狂気のシナリオ」、また以前風靡した中村うさぎさんの「人前でセックスしてみました!」 編集長は今は文芸部門にいる太っちょのおばさんだ。当時は5万部前後は発刊されていたと思う。

 さて、炎上死の最終号の特集は、「野党 百害」、そして特別企画「そんなにおかしいか杉田水脈論文」と続く。執筆者で目立つのは、ケントギルバードとか小川栄太郎とか。私にいわせればデマゴーグである。まったく別の雑誌のようである。




 

















思えば新潮45との付き合いは12年にもなる。
 11本か12本しか原稿を書いていないのだから、新潮45はまるで1年に一度会う恋人のようだ。最初は、2006年は炎天下の夏に、介護殺人の取材のために、京都に2度も出張し、犯人が母親といっしょに住んでいたアパート、関係していた介護施設、留置所などを歩きまわり、刑事のように聞き込み、そして裁判を傍聴した。取材は長くかかった。経費を送って、「えーこんなにかかったんですか」と担当編集者に怒られたが、今では考えられないが、原稿料以上に取材費が出たのである。

 その後国内ものでは、介護、失明、恋愛塾、震災時の東電の問題、などを取り上げ、海外ものでは、ベネズエラミスユニバース、カリブの変態寿司、カリブのオタクキュラソーへのココ・バレンティーンの凱旋などを取り上げた。

 思えば当時はよくこのような企画が通ったものだと思う。本来の新潮社の路線とはほとんど関係がない。その意味では当時の編集長や担当編集はに感謝したい。
書き手にとっていい雑誌とは自分の文章を取り上げてくれる雑誌である。今は私の海外ものの企画など通らない。昨年の「いつまで続く猫ブーム」が最後の掲載となった。

 現在の発刊部数は1万6千冊前後だという。これでは貧すれば鈍する。編集長は、廃刊の危機を感じ続けていたことだろう。安易な行きつく先は、少数者叩き、ヘイト、韓国、中国叩きであろう。

 
新潮45の選択肢は限られていた
 月刊誌の王様「文芸春秋」は王道をいっている。反安倍政権の立場だ。短期的な経済的利益よりも、国民のモラルを落としたり、言論を弾圧することのほうが、ずっと問題と考えているのだろう。
 独裁国家にいた私も同じ立場である。安倍政権が終わったあと、その政権が残した負の遺産による苦い現実が日本に待っていることだろう。(参考 「民主政権下、こうしてメディアは殺される])

 いずれにしろ、文芸春秋と同じ路線でいくわけにはいかない。さらに、エログロに戻るわけにはいかない。新潮の路線では左翼系というわけにもいかない。もともとスキャンダルが信条なのだ。
 そこで、右寄り、ヘイト、少数者叩きしか残っていないというわけだ。そして、ぎりぎりのところを踏み越えてしまった。

 残念だ。実は私は特集などに呼ばれたことはないが、一筆者、せいぜい原稿用紙10枚ぐらいで、舌足らずになりがちである。内容は薄く、グラビアのように人を呼び込む見世物なのである。
むしろ、最終号には、私も愛読していた「マトリ」、「廃炉という仕事」などという興味深いドキュメンタリーがあったのである。執筆者は、次の原稿にもとりかかっていただろうに、稿料の支払いとかはどうなってしまうのだろうか。

校閲は最強だったのに
 それにしても思う。なぜこんなことがおこったのか? なぜぎりぎりの則を踏み外したのか?
「痴漢の触る権利を社会は保障すべきではないのか」(小川)という部分には、校閲者の赤が入ったと私は想像する。 か、たとえば、「痴漢だとて性少数者なのだから、彼らに少しは寛容であってもいいのではないか」とか、私の経験からして新潮の校閲はどこよりもきちんとしているはずだ。あるいは小川が、ママとしたのか、それともリテラにあるように、幹部の押す特集なので忖度が働いたのか(続く)。

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釜山の甘川文化村の資料を探してみたが(2)












 前回までは韓国旅行の前半で、実は最も私が訪れたかったのは、甘川文化村である。ここはスラム開発の世界のお手本となるべき場所だ。
 空港の観光案内所でまずは情報を仕入れて見る。釜山は朝鮮戦争で何十万という避難民でごったがえしていたが、その丘に住みついたのは太極道という宗教関係者だったとのこと。
 訪れてみてわかるが、水さえ出ないような場所で、何十年か前までまさにスラムとして取り残されていたのである。







 それが2009年にはじまったプロジェクトで美術の街として何十万人もの観光客を呼ぶことができる文化村に変身した。釜山のマチュピチュなどと呼ばれるそうだが、マチュピチュとは似ても似つかない。似ているならばチリのバルパライッソだ。

 私は観光センターや書店まで尋ねて、この街のプロジェクトについての資料を求めたが、ないのである。英語も韓国語も。薄っぺらいガイドブックがあるだけで。
 このような意図的なスラムの変身プロジェクトはなかなか成功しないものだ。リオ・デ・ジャネイロベネズエラのスラムは、ずっと巨大で、中には犯罪の温床となっているところもあるので、プロジェクトの成功はおぼつかない。

 けれども小説でもノンフィクションでも研究書でもいいから、世界の公共財としてその知見や歴史は共有するべきものであろう。残念だ。もし、どなたかこの街にかかわる詳細な文献などあれば教えてもらいたい。


 さて、次は10回前後寄稿した、「新潮45」炎上商法について考えて見たい。

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釜山の甘川文化村の資料を探してみたが(1)

食と温泉

 この夏、韓国釜山を訪れた。近隣の国は、せいぜい香港や中国の深センや広東しか訪れたことがない。北東アジアは初めてだった。家族で遊びにいったのである。

 しかしのっけの大韓航空機から恥ずかしい目にあった。息子がビールとピーナツをおかわりし、むしゃむしゃぐびぐび飲んだせいで、私と彼のところに、嬉しそうそうにスチャ―ドが何十袋もの余ったピーナッツを持って来てくれたのである。息子も嬉しそう。その後、着陸態勢に入った時に、山もりになったピーナツの袋のいくつかが落下し、前方の席へとスーと流れて行った。これがピーナッツリターンか。

 女ども(妻と娘)の顰蹙を買うことはなはだしい。小さい頃にホームレスといっしょにホームレス食を恵んでもらったくせが出てしまったのだ。

 それはさておき、今回の目的はうまい海産物を食おうというものだった。チャガルチ市場でアワビの刺身やタコの踊り食いやらを食べたが、やはり北海道で小さい頃に食べて巨大な生きたアワビと比べるべきもない。


 ネットで調べてうまいという海水浴場のヘウンデにある店のヘルムタン(海鮮鍋)も微妙。香港のほうが一枚上か。
 もちろん、それらがまずいというわけではない。値段と味を考慮すると日本で食べるよりもお得感はある。けれども、世界中の珍味を食べつくしている私にはなかなか満足が得られない不幸がある。
 そんな中、これはいいと満足したのは、釜山名物のデジクッパクッパはもともと牛肉のはずだが、かつて牛肉不足で豚を使ったところ、なかなかうまく定着したらしい。
私たちが訪れたのは、下町のサンドゥンイデジクッパ。店は大いり、回転が早い。韓国の肝っ玉母さんのようなおばさんたちが、注文をとり、デジクッパを配り、さげる。あわただしい。千円前後で、腹が満たされ、美味と満足するB級グルメのお手本だ。

 さて、食のほかの目的は韓国のサウナ、チムジルバン。韓国一の海水浴場だというので、ヘウンデにある海雲台温泉センターを訪れた。まずは5階の風呂へ。
 これはひどい。夏休みとあって子供たちが風呂の中で、シュノーケルや水中メガネをかけて大騒ぎでじゃぶじゃぶやっている。
しかも私が身体を洗うために、座った場所の蛇口をひねると、お湯が勢いよく出るのはいいが止まらなくなってしまった。そこで周りを見渡し、静かに他の場所へ。うーん風呂はだめだ。
その上の階のチムジルバンへ。ここは別料金。なるほど、こちらは大騒ぎもなく、身を横たえれるサウナなので、いい気分だ。
 さて、これは韓国旅行の前半で、実は最も私が訪れたかったのは、甘川文化村である。ここはスラム開発の世界のお手本となるべき場所なのだが(続く)。

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戦場の性の真実 慰安婦のリアルティ3

戦場と戦争こそが格差を残酷にあぶり出す
 彼らの駐屯していた山西省の奥地にも、鉄道沿線の街には、芸妓と称する日本のしょうばい女たちも、いなくはなかった。だが、彼女たちは、決して鉄道沿線の街から、生命の危険の多い、もう一つ奥地へはいってこようとはしなかった。街での彼女たちは将校専用で、小粋な部屋に起居し、そこには、たまに街へ出ても、兵隊たちは立入禁止になっていた。
 兵隊たちは、奥地で指定された場所にいる中国人の女か、また別の、ちがった場所にいる朝鮮人の女たちのところへかようことになっていた。

―軍隊は当然のことながら、地位による格差の世界である。将校や高級参謀と一兵卒は別の世界に生きている。
 最近はこの日本でも、威勢のよいことを書いったり言ったりする作家や論者が目立つ。彼らの多くは若くはないし、識者とされる人々である。戦場には出ない。その威勢のよさに乗せられる若者、とりわけ格差社会の下部にいる人々こそ、戦場でもっとも苦難をなめる。慰安婦も当然のように貧困家庭の出が多かった。慰安婦の日常を描いた『春婦傳』にも以下のような文章がある。

「将校たちのなかには自分をよっぽどえらいものと思いあがっていて、女たちを人間のようには思っていない者が多かった」
「ところが、兵隊たちは、たまに沿線の町へ出張しても、肩の星と、うすよごれた服装とで、日本の女たちから軽蔑されて、問題にされないので、みんな日本の女たちを罵りながら、ゆくさきはやっぱり彼の女たちのところである。彼の女たちは、さういふ兵隊に真剣になって立ちむかってくれるのだ。兵隊たちは彼の女たちと、愛しあったり、泣きあったり、喧嘩したり、罵りあったりして、わづかに生甲斐を感じた」

従軍慰安婦といわれる理由
 列車は黄河北岸までしか通じていなかった。それからさきは、列車から降り、みんな、徒歩で、こんどの作戦のために工兵隊が王河に架けた仮橋を渡らなければならなかった。
 昼間の渡河は、いつ敵の戦闘機P四〇の銃撃を受けるかも知れないので、危険であり、大部隊の行動は夜間にきめられていた。地上は日本軍の制圧下にあっても、制空権は敵ににぎられていた。(中略)
 夜どおしの行軍で、行軍部隊の兵隊たちはあかるいうちは、死んだように横たわり、家のなかで眠っているので、女たちは彼らにつかまる気づかいはないが、それでも原田は、彼女たちに宿泊している家から、そとへ出ることを厳重に戒めた。

―ただの慰安婦なのか従軍なのかという論争があったように記憶している。従軍という言葉は、看護婦、通訳官などの軍属を連想するらしい。「蝗」に登場する慰安婦は軍といっしょに行動している。筆者はむしろ、その意味で従軍が相応しいと考える。だから、彼女らの運命はいっそう軍の運命と重なる。

慰安婦の運命
「アア、コンナイイテンキハ、ユジヲデテカラハジメテタヨ、ハラタ」
 ヒロ子はヒロ子なりに、心の底から、そう思うのだろう。お互いに扉の上に横たわったまま、ヒロ子は青白い腕をのばして、原田の手をにぎりにきた。(中略)
 ここが戦場のなかであるということを、どうしても自分の心に納得させることが出来ないような、のどかで、静寂な時間が、そこにあった。みんなは、その時間のなかにひたり、陶酔していた。そのとき、だしぬけに、原田は眼の前の石畳に、轟音とともに、黄いろい火柱が立ち、耳のあたりがなにかで殴りつけられるのをおぼえた。鼓膜がひどい衝撃を受け、無感覚になった。

 扉をはずして、院子に持ちだし、その上に横たわって、さっきから快さそうな昼寝をむさぼっていたヒロ子の身体が、その瞬間、弾かれたみたいに、二、三回、回転して、両肢を思いっきり伸ばし、小刻みに痙攣するのを見た。だが、そのように見えたのは、原田の眼の錯覚で、右の肢は左肢のように伸びてはいなかった。伸びていないどころか、それは、普通、誰でも知っている肢というものの形ではなかった。膝関節から下の部分は、単にぶらさがっているにすぎないように思えた。それを見たとき、彼は一種いうにいえない不快感をおぼえた。そこになければならない、足の形をした部分がなくて、別の場所に、その欠落した部分がくっついているのである。

―原田と彼の部下は瀕死のヒロ子(朝鮮名ではなく源氏名で呼ばれた)を患者収容所へトラックでつれて行ってもらおうと必死に頼み込むが、食糧他の物資で山積みの車輛部隊の隊長は、あっさりと断るのだった。
「廃品はどんどん捨てて行くんだ。いつまでも、そんなものを抱えこんでいたんでは、戦闘は出来んぞ、身軽になれ、身軽に」

 朝鮮半島出身の慰安婦を含め、慰安婦は多くは帰国できたようだが、一兵卒たちといっしょに、東南アジアの密林で、中国の平原で、太平洋で、戦死したものもいたのである。たとえ自分の意思としても、より前線へと派遣されたのだから、朝鮮半島慰安婦のほうが、日本人慰安婦よりも死亡率は高かったことだろう。

 また、田村は中国戦線から20数年後にこうも書いている。
「か弱い、無力な花々にしかすぎなかった彼女たちを、私自身は、裏にいかつい鉄の鋲のついた軍靴で、情け容赦もなく、ふみにじり、銃弾のとびかい、硝煙のたちこめる前線へすすみつづけ、敗戦によって、故国へ帰ることができ、いま、半身の自由がきかなくなったとはいいながらも、妻子とともに生きていることは、なんという明暗のちがいであることだろう。
 すべては運命という言葉で片づけてしまって、いいことだろうか。
 いまの私にはわからないが、強いてわかろうとも思わないのである」(昨日の花々)


机上の戦略・戦術と戦場は別だ
 現在の朝鮮半島危機にあって、シンクタンクにいるとき、随分昔に仕事上会ったことのある戦略家のエドワード・ルトワック氏のように北朝鮮への先制予防攻撃を唱えている識者もいる。彼ら、平和ボケの人々には田村の次の言葉を返したい。

「兵隊は敵と戦闘する場合、どんなに地形地物を利用しても、自分の銃弾を発射する場合は、すくなくとも自分のノド元から上を、敵の銃弾のとんでくる空間へ露出させなければならない。いかに用心深い兵隊といえども、彼が兵隊であるかぎり、最小限それだけの生命の危険を冒さねばならない。将校や、報道班員と、兵隊とのちがいは、ノド元から上を敵の銃弾に曝すか曝さないかのちがいである。そして、それだけのちがいは、決定的であるように、私には思える。(「戦場と私」)」

戦場の性の真実 慰安婦のリアリティの2

田村村泰次郎は生き証人だった
 田村泰次郎は、戦後の性風俗を描いた『肉体の門』の作家とされるが、『肉体の悪魔』『裸女のいる隊列』などの事実を反映している、戦場の性を扱った作品のほうにこそ秀作がある。
田村は昭和15年招集され、21年の復員まで、山西省で6年弱、一兵卒として戦っている。属したのは独立混成第4旅団の独立歩兵第13大隊の旅団司令部の演芸宣撫班や工作班(=情報収集)である。隣の第14大隊は中国人慰安婦らに山西省孟県で性暴力を振るったと提訴されている。田村と親しかった文芸評論家の奥野健男は、田村は実際に慰安婦と係る任務についたという意味のことを書いている(末尾 筑摩現代文学大系第62巻)。まさに生き証人であり、しかも慰安婦に向ける視線は、研究書などと違い、上目使いではない。いっしょに釜の飯を食べた仲間の目線なのだ。
 そこで、慰安婦を列車で移動させる任務に就いた軍曹を主人公にした「蝗」を中心に一部抜粋して紹介しよう。差別用語や残酷な場面があるが、そのまま掲載する。

「蝗」

同国人の女衒に連れられてきた女たちを輸送する任務についた
 白木の空箱を宰領して、黄河を渡り、洛陽をめざして、そこに近い、河南の平野のどこかにいる兵団司令部まで送りとどけるのが、原田軍曹の役目であった。(中略) 彼の任務は、実はそれだけではなかった。この車輛のなかで、夜ふけだというのに、狂ったように声をはりあげて歌っている五人の女たちを、原駐地からそこへつれて行くのも、彼の別の任務にちがいなかった。
 そのほかに、もう一人の男が同行していた。女たちの抱え主で、朝鮮人の金正順である。前線の兵隊たちの欲望を満たさせるために、自分の抱えの女たちを、そこへつれて行くという、りっぱな名目の裏で、憲兵隊の眼の光らない場所で、阿片を売買しようとするのが、この男の目的であった。

朝鮮半島慰安婦は同国人によりリクルートされたと考えるのが自然だろう。現地の言葉や現地の事情に通じた人間が接するほうが何事もうまくいく。しかも女衒なのだから、犯罪傾向がある人間も中にはいたであろう。国に係らず、売春や覚せい剤の販売は、マフィアやヤクザの主業務である。
 なお、白木の空箱とは戦死者の遺灰などを納めるためのものである。

輸送中に女たちは明日の命を知らない兵士たちに蹂躙された
「貴様が、引率者か。チョーセン・ピーたちを、すぐ降ろせっ。おれは、ここの高射砲の隊長だ。降りろ」(中略)
「自分たちは、石部隊の者です。この車輛のなかには、前線にいる自分たちの部隊へ輸送する遺骨箱が載っているだけであります」
 風の唸り声に、原田の声はかすれて吹きちぎれた。
「嘘をいうな。前から八輌目の車輛のなかには、五名のチョウセン・ピーが乗っていることはわかっているんだ。新郷から無線連絡があったんだ。命令だ。女たちを降ろせといったら、降ろせっ」
 酔っ払い特有の、テンポの狂ったねちっこい語調で、そう叫びながら、将校は腰から、刀を抜いた。刀身は、腐りかけた魚腹のように、きらりと鈍く光った(中略)。 
 ここへくるまでに、開封を出発しでまもなく、新郷と、もう一箇所、すでに二回も、彼女たちは、ひきずり降されていた。そのたびに、その地点に駐留している兵隊たちが、つぎつぎと休む間もなく、五名の女たちの肉体に襲いかかった。

直接軍や官憲が慰安婦リクルートしたかどうかが、賠償という面からは法律的には重要になる。けれども女衒がリクルートしようが、業者が運営しようが、慰安所は軍が監督していたのである。彼女らの輸送にも軍が関わった。
 筆者は政府機関に委託された業者として働いたことは何度もある。第三者、とりわけ外国人から見れば、政府機関の一員と見られたものだ。

金を支払わないこともあった
「チキショー、パカニシヤガッテ。アイツラ、アソプナラ、アソプテ、ナゼカネハラワナイカ。カネハラワズニ、ナニスルカ」
 空っぽの遺骨箱のあいだのもとの座に戻った彼女たちを見降ろしながら、原田は彼女たちの口々の叫び声を聞いていた。兵隊たちは彼女たちを抱くだけ抱くと、まるで汚物を捨てるように、未練気もなく、その場に放り出した。

5人は別の街で売春婦として働いていた女性である。当然、支払いを要求するし、前線に行くので希少価値があり、「街にいりよりも儲けが多い」といわれて勧誘されていたのは、想像に難くない。また慰安所に行けば、経営者が悪質でない限り、金は支払われたのである。けれども、時にレープまがいのことが行われていた。

明日の命が儚い戦場で生は性と重なった
 彼らはその地域の守備隊ではなかった。こんどの作戦のために、大陸のあちらこちらから、ひき抜かれて、そこへ移動してき、また明日、どこへ移動して行くかも知れない、そして、同時にそのことは、明日の自分たちの生命の保証を、誰もしてくれはしない運命のなかにおかれた兵隊たちなのだ。束の間の短い時間のそれは、彼らが頭のなかで、いつも想像しつづけている豊かな、重い、熱い性とは似ても似つかぬ、もの足りぬ、不毛のものではあったが、しかし、それは彼らがこの世で味わう最後の性かもしれないのだ。飢え、渇いた、角のない昆虫のように、彼らは砂地の二本の白い太腿をあけっぴろげにした女体の中心部へ蝟集した。

戦場に自分がいると仮定して、自分だけは超然としていると言える人はどれだけいるだろうか? 筆者は自信がない。「蝗」の後書きにはこうある。
「そこにある絶望的な勇気、他人に知られたくない卑怯さ、集団のなかの孤独、生命への慢性的な不安、気ちがいじみた情欲、あらゆる瞬間における獣への安易な変身、戦場にある、そういう一人の兵隊に執拗につきまとうものを、私はどこまでも追求して行きたい」
 また、田村は54歳になってこう書いている。
「かつての戦場で、自分が人間以外のものであったことをみずから認めるために、そのときの原体験の忠実な表現者でなければならないという気がしている」(「戦争と私 戦争文学のもう一つの眼」)
 続く

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ところで米朝対話が始まりそうだね。一部の新聞は、戦争だ、斬首作戦だ、などと煽っていたが、そのようなものは被害甚大だし、しかもできるわけがない。キューバ危機のときにもし米海兵隊が島に侵攻していたら、全滅していたのだから。イラクとは違う。
 ご参考:北朝鮮危機を前にトランプ大統領に読ませたい珠玉の一冊

*戦場の性の真実 慰安婦のリアリティの1

 戦場は平時の悪が善になり、善が悪になる価値が転倒した世界である。平然と人を殺せる人間こそが英雄となる。モラルは簡単に瓦解する。人の地金が現れる。あるいは人間が人間でなくなる。そんな戦場の性のリアルティを描いたのは作家の田村泰次郎をおいて他にいない。  
(本文はどのマスコミも尻ごみをして掲載できない真実を描く目的で掲載することにした。また、田村のような事実を知る人間が、さほど触れられないことにも私は長年疑念を抱いていたのである)

なぜ今田村泰次郎を取り上げるのか
他者の感情に寄り添う
 平昌オリンピックでもっとも印象に残るのは、女子500m決勝で勝利した小平奈緒選手がレース終了後、2位に終わった李相花(イ・サンファ)選手を抱きかかえていた場面だろう。国と国がどうあれ、個人は仲良くなれる。

 けれども国民感情や国の政治は別だ。オリンピックが終わるとさっそく康外相が国連で慰安婦問題を持ち出し、文大統領も「慰安婦問題は終わっていない」と演説し、韓国は、再び慰安婦の問題を蒸し返している。日韓合意は基本的に履行するようではあるが、それでも国民が心情的に受け入れられないという。戦後の賠償請求にしろ、今回の日韓合意にしろ、それぞれ完全かつ最終的な解決、最終かつ不可逆的な解決という文言が入っている。

 条約や外交的合意は、法律的、すなわち合理に根ざしている。けれども、感情や心情は、理性や理屈ではないのだから、治まることはない。ましてや水に流す日本と違い、恨(ハン)の文化といわれる韓国である。日本でさえ、いまだ民族の記憶として700年以上前の元寇が生き続け、機会がある度に、神風とかむごい(蒙古(もんご)い)などという関連する言葉が蘇って来る。
 外交上は、日本は終結した問題であるという方針で押し通すとしても、他民族の感情を理解しようとする姿勢は不可欠と考える。


第二次世界大戦は遠い記憶となった
 筆者はベネズエラで仕事をしていたときに、韓国人の若者と何度も接する機会があった。彼らの中には第二次世界大戦で日本と韓国が戦ったと誤解している者がいたし、他のベネズエラ人やドイツ人もそう考えていた。もしかしたら日本の若者の一部もそのように考えているかもしれない。そのようなありさまなのだから、慰安婦について実情を知っている人は少ないことだろう。

現場にいた人間だけが分かる真実
 慰安婦については文献調査、聞き書き調査など夥しい数の書籍や文章があり、『慰安婦と戦場の性』(秦 郁彦 新潮選書)のような労作もある。けれども実際に現場にいた加害者側の作品でリアリティのあるものは少ない。
 筆者の経験からいうと、目的は全く別としても海外投資や援助は文化や価値観の違う人々と接するという意味で戦場と似ている。これまでアマゾンや中東の砂漠や犯罪がうずまく世界で働いてきたが、実情はやはりその場にいた人間でなくては分からないという気持ちがある。

 田村はこう語る。「いまも私は、一兵士でなかったひとの戦争小説は信じる気持になれない。その点は、実に頑迷なものがある。実戦の体験者だけが、戦争小説を書ける資格があると、私は本気で考えている」(『春婦傳』自序 東方社) 続く